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航行禁止
昭和20年8月15日、日本は連合国側に無条件降伏をし終戦となりました。それまでの価値観は、それを境に崩れ去り、日本は進駐して来た連合国軍最高司令部(GHQ)の軍政下で新たな思想、民主主義を身に纏うことになりました。それに従って水産業界の様相も一変しました。徴用と空襲に痛めつけられた漁業の不振は、他の産業と同様に深刻でした。加えてGHQの占領政策は当然漁業にも規制が加えられ、その第一段として、あらゆる船舶の自由航行禁止が布告されました。日本漁業は戦時中にほとんど壊滅的な打撃を受けていましたが、戦後はその出漁さえも禁止されることになりました。15年間の戦争がもたらしたものは、国土の荒廃と死と隣合せともいえる極度の飢えでした。この様な状況の中で動物性たん白食糧を供給するためには、さしあたり手近な海洋資源へ依存するほか道はありませんでした。
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出漁許可
GHQは昭和20年9月27日、一定の条件の下に船舶航行制限を緩和しました。いわゆるマッカーサーラインと呼ばれる一定の区域内での出漁・操業が許可されました。戦禍を逃れて生き残った老朽漁船は、満足に操業できる状態ではありませんでした。例えば昭和20年12月の以西底曳許可隻数は151隻でありましたが、稼動船はわずか20隻に過ぎませんでした。政府は昭和20年9月、食糧確保緊急措置を決定。「水産食糧の増産を図ること緊要なるをもって、急速に残存船の修理を完了すると共に、新たな漁船所要数の補充をなす」との方針の下に、漁船33万トンの補充が具体的目標として揚げられ、日本漁業復興の道が開かれました。西日本地区においては廉価で多獲性大衆魚のイワシを漁獲対象とした揚繰網漁業と、過去の漁獲実績を有する以西底曳網漁業の急速な復興が、消費者の一致した切なる願いでした。
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遠洋漁業の復活
戦後の東海・黄海における以西底曳網漁業は、逼迫した食糧事情の緩和に非常に大きな貢献をしました。長崎から戦後初めて出漁した名誉ある第一船は、大洋漁業(株)長崎支店所属の木造船第81・82大漁丸でした。出港は昭和20年10月7日、原爆被災から僅か2ヶ月後のことでした。以西底曳船の乗務員の大半が消息不明とあって、人を集めるのに最大の苦労をしました。加えてまとめて資材はなく、準備にさんざん手間取って、1組の船を出すのに1ヶ月を要しました。氷は原爆の被災を免れていた大洋漁業(株)土井首冷蔵庫から積む事ができました。「コンパスと海図だけが便りの操業で私の勘と経験から漁場を選定した。船内には浴室もなく、清水も限られていて洗顔など満足にできない居住環境でした。食糧事情は極端に悪く、魚をすり潰した団子入りの雑炊で腹を満たしながら操業を続けた」(北里兼吉漁労長談)という懐古談もあります。
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以西底曳網漁業の復興
以西底曳業界は、昭和17年頃から漁業資材の不足に加えて、漁船と漁船員の徴用が相次ぎ、昭和19〜20年にかけての東海・黄海漁場は休漁も同然の状態でした。従って魚資源は極めて豊富で、遠洋はもちろん日本沿岸でも出漁すれば面白いように魚を獲ることができました。漁業復興の方針が明確になるにつれて、既存の漁業者ばかりでなく、他産業からも漁業経営に参加するものが現れました。特に安定性で秀れた以西底曳網漁業が着目され、昭和23年3月までに685隻の以西底曳船が建造されています。この漁船建造に比例して許可隻数も年を追って増加し、昭和22年4月の時点で戦前の隻数を超え、24年末には968隻に及びました。
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増大する漁獲量
操業隻数の増加に伴って漁獲量も多くなり、底曳網漁業は昭和23年、トロール漁業は24年に戦前水準(昭和15年)の漁獲量を超える成績をあげています。このことは食糧事情の劣悪な当時としては貴重なものでした。以西底曳網の出荷実績を昭和23年度で見ると、年間通算で農林省出荷指示量の119%となっています。特に関西市場においては、入荷量の50〜80%は以西底曳網の漁獲物で占められており、他種漁業に比べて格段の貢献をなしていたと言えます。長崎を根拠地とする以西底曳漁船は、昭和8〜9年頃は28組、16年頃には51組と増加し、戦後の昭和25年には116組、29年には133組の大勢力となりました。昭和25年の以西底曳漁船の年間総漁獲量は約5200万貫となっています。そのうち40%、1750万貫が長崎魚市場に水揚げされています。そしてその大部分が遠く関東、関西にまで貨車輸送されました。
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漁船の建造
建造に歩み出しました。政府は船さえ造れば漁業許可は出すという時代でした。大洋漁業鰍ヘ昭和20年9月に早くも役員会を開いて、漁船216隻・2万160トンの建造を決定して全国の造船所に発注しました。長崎では以西底曳漁船60隻と捕鯨母船(日新丸)、塩蔵運搬船(天洋丸)各1隻が三菱長崎造船所に発注されました。徳島県漁業者グループも、10月には鋼製の以西底曳漁船60隻を三菱長崎造船所に発注しました(起工は昭和21年2月)。昭和21年7月には徳島商店漁業部、9月には興洋漁業、10月には山田屋商店と、当時の造船業界はまさに底曳漁船の建造ラッシュ時代でした。
三菱長崎造船所と漁船
『三菱長崎造船史』(昭和26年発行)によると、「終戦後しばらくの間は、全面的虚脱状態のため米軍への労務提供等に時を過ごしましたが、その後GHQ及び政府当局の指令に基づき、ようやく続行船工事が再開されるに至り、いささか前途に光明を得て、生産への気運がただよいはじめました。また漁船建造の許可に伴い、大洋漁業(株)・興洋漁業(株)・丸徳海洋漁業(株)・山田屋商店・徳島商店などの注文で、55トン・75トン型底曳網漁船をはじめ160トン型鰹鮪船、270トン型トロール船などが、かつて戦艦武蔵その他幾多の優秀艦艇を建造した大船台において続々建造するに至った」と記されています。本来ならば船台に船を縦において造るのだが、この時代は小さな漁船をメザシのように船台一杯横に並べて造るという前代未聞の方法で、出来上がると軽々とガントリークレーンで吊り上げては、次々と進水というよりは海面にボチャンと落としていくというあり様でした。第1船は大洋漁業(株)の底曳船「第1大漁丸」で、起工を昭和20年10月26日、進水を21年1月22日、完工を21およそ似たようなものでした。このように戦後、以西底曳・トロール漁船の復興に大きく寄与しましたが、何といっても1世紀以上にわたって培われた信用と造船技術を発注側は見逃すはずがありませんでした。新造船の70%は同所で建造されたものではないでしょうか。漁船構造の主流が鉄鋼製に移ったのも、発注者の意向によるものでありますが、昭和22年には木鉄交造船18隻が完成しています。受注したときは戸惑ったでしょうが、そうはいっておれない時代がありました。各社、それそれ由緒ある船名を持った底曳船でありましたが、標準タイプは、船長21.8メートル、船幅56メートル、深さ2.52メートルの55トン型で、起工から75〜80日くらいで引き渡されていました。。戦後の造船業界を最初に活性化させ、長崎市民に復興の意欲を燃えたたせたのは、いち早く戦禍から立ち直り、漁船を発注した水産業界でした。
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狭すぎた制限漁区
当時の以西底曳漁場は、マッカーサーラインに囲まれた東海の一部にすぎませんでした。戦前の操業範囲と比較すれば、底曳網漁業では30%、トロール漁場は15%の海区内に押し込められ、主要漁場ははるか制限漁区の外側にありました。マ・ラインによる漁場の制約は、以西底曳漁業戦後史のなかで特記すべき重要問題でした。昭和20年9月の第一次拡張で操業区域は3万6000平方海里、昭和21年6月の第2次拡張で、7万平方海里と戦前(21万2000平方海里)の約30%に回復されましたが、それがそのまま講和条約発効直前まで継続されました。そのため復興をめざす以西底曳漁業にとっては大きな隘路となりました。
減船整理
この狭い漁場に戦前以上の漁船郡が殺到して操業したため、戦時中に資源回復したと思われていた漁場も急速に荒廃の徴候を示しはじめ、その結果、制限漁区をるために、昭和25年、第1次の減船整理を実施するこになりました。これと併行して、50トン未満の108隻に対しては、創業海域を統計127度30分以東、東経130度以西に制限しました。これがいわゆる中間漁区線です。
こうして第一次減船は9月13日、242隻。第二次は11月17日、39隻が指名されました。減船は統計で285隻となり残存船数は710隻となりました。またトロ−ル漁船は統計で11隻が減船され残存隻数は47隻となりました。政府は昭和27年9月「以西底曳網漁業対策要綱」を発表し、従来の中間漁区線、統計130度に替わって128第一次減船整理の対象となった西日本の各県別隻数は表14のとおりです。手繰船(以西底曳漁船)は、昭和22年の677隻から推測すると40%の約270隻が長崎組でありましたが、そのあと外地で操業していた業者が引揚げて来て許可を貰ったため(川南水産、共和漁業、長門漁業)、昭和23年には西日本地区で909隻と激増していきました。このように狭い海域で入り乱れての操業なので、まもなく資源問題が起こり昭和25年には一率30%の減船が行なわれました。