戦前戦後における魚市場と漁業界
昭和10(1936)〜25(1951)年

  1. 戦時体制下の長崎魚市場
  2. 戦時体制下の水産業
  3. 占領下の水産業
  4. 戦争末期の長崎魚市場
  5. 戦後の水産行政

1.戦時体制下の長崎魚市場
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  • 食料品の統制

    • 水産物の統制
       昭和12年7月、日華事変が勃発したころからの世情は準戦時体制へと大きく変貌していきました。水産業界でも、各種資材の不足と従業員、漁民が戦時要員に組み込まれて生産現場から姿を消していき、定期水産物の生産は日増しに減少の一途をたどり始めました。この動きは逆に、物不足から一般の消費物価指数は上昇を重ね(昭和7年比で14年には189,8%の上昇)、水産物の価格もこれに追随する形となってきたことから、生鮮食料品に対する統制論が高まってきます。

    • 公定価格制の実施(マル公)
       昭和13年7月、,物品価格取締規則が公布されて公定価格制(マル公)が確立しました。昭和14年10月、物価統制令が実施され、9月18日の水準ですべての物価が凍結されました(9.18ストップ令)。ただし生鮮食料品は価格統制が困難との理由で、大部分が除外されました。物価の騰勢を何とか押さえ込もうとして、政府は昭和15年3月「生鮮食料品の配給騰勢及び価格抑制に関する応急対策要綱」を決定しました。

  • 市場の統制

    • 流通の統制
       昭和15年8月16日、「生鮮食料品の配給統制及び価格抑制に関する件」が発表されました。これがいわゆる卸売沿い炉市場から消費者までの流通過程を統制する「8.16要綱」といわれるもので、市場制度を全面的に変貌させるものでした。同年8月30日には、素干・煮干・塩蔵品など150余品目、11月8日には冷凍魚の公定価格の指定を行ない、生鮮魚介類の価格統制が具体的に姿を現すこととなりました。しかし、これらの統制は市場の経済活動を沈滞させただけでなく、かえって生鮮食料品の品不足と価格の高騰を促し、市場外のヤミ値・ヤミ取引を増長させる皮肉な結果をもたらしました。

    • 流通組織の一元化
       
      生鮮食料品の流通混乱・価格抑制の失敗から、政府は生産から消費まで一貫した統制を行なう道を選ぶようになりました。昭和16年4月1日、国家総動員法に基づく生産物資統制令に代わって、鮮魚介配給統制規則が制定されました。出荷は、全国主要揚陸地を指定し、揚陸された貨物は指定された魚市場に搬入、そこから出荷統制組合の出荷計画に基づいて計画配給されました。流通については、主要地域に消費市場を指定し、その市場が中心となって地域内の関係業者で配給統制組合を組織して、荷受流通の一元化を図るものでした。

    • 仲買人制度の廃止
       
      公定価格制の実施によって、卸売市場の仲買人はその評価機能を失ってしまうこととなりました。これに追打ちをかけるように、農林省は昭和16年10月15日をもって、仲買制度を全面的に廃止すると発表しました。ここにおいて、徳川時代から続いてきた「仲買い」という職業は流通機構の中から消えていき、仲買人の大多数が統制組合に吸収されていきました。

  • 戦時統制と長崎魚市場

    • 進む企業整理
       
      日中戦争が長期化の様相を帯びてきた昭和15年、生鮮食料品の配給統制が公布されるにいたって、長崎にも食糧不足の影が忍び寄り、魚類の流通にも国による統制が強化されていきました。集出荷関係については、長崎魚市場と所属の問屋・仲買人は、国の方針に従って組織の再編に動き出しました。

    • 組織の統制
       長崎魚市場では、昭和15年の統制令に従って機能別に企業整理が行われ、3月には問屋制度が廃止されて、新たに『長崎鮮魚介集荷組合(組合長・山田鷹冶)が発足しました。昭和16年4月には、公布された鮮魚介配給統制規則に従って『長崎市鮮魚介統制出荷組合」が設立されて、出荷統制業務を担当します。また、同年5月に「鮮魚介運搬何班船組合」が発足し、市内の集荷業務一元化が進んでいきました。7月には、県令によって水産物販売統制規則及び集荷機関が定められ、この機関を通過しない水産物の売買はできなくなりました。

    • 小売商の動向
       
      一方、小売業者間でも昭和17年に「長崎鮮魚小売商組合」が結成されて時勢に対応しますが、配給統制は組合員にとって,生活を脅かす死活問題でした。仲買人のように組合に収容できればよいのですが、数において比較にならない小売人の処遇は、各自の意思に任せねばなりませんでした。このような切替えに際して当然のように混乱が生じ、結局、配給所に指定された一部の小売商を除き多くの人々は転廃業の道を選ぶこととなりました。

    • 生活と統制
       
      昭和13年の国家総動員法の公布によって、すべての生活必需品は国家統制の下に置かれました。
         昭和13年  電力の国家管理
            14年  米・石炭の配給統制
            15年  米麦は1日2合3勺
                 砂糖は1月半斤
                 酒は切符制
                 賃金・家賃等は凍結
            16年  米通帳制
            17年  塩・味噌・醤油・衣料が通帳又は切符制配給
      と順次配給制が取られ、生活は日増しに切迫してきました。昭和17年に入ると、物価統制令に基づき惣菜類最高販売価格が定められて、統制は魚を使った寿司、天ぷら類の値段まで事細かに定めるようになりました。長崎蒲鉾組合では、長崎市発行の購入切符で一人当たり25匁を配給しました。この年から蒲鉾などの練り製品にも最高販売価格が適用されました。このように、ほぼ全製品が統制の対象となっていましたが、さらに「販売価格の査定及び出荷並びに配給に関する事項」を審議するため、「長崎県水産物価格査定委員会」(県告示437号)が設置されました。

    • 魚市場の機構改変
       
      統制の徹底のためには、配給組織の整備も必要でした。長崎市鮮魚小売商組合の発足に次いで、昭和18年には鮮魚共同販売所の機構を改め、長崎鮮魚介集荷組合を母体に出資金50万円の「長崎鮮魚介荷受配給組合」が設立されたため、長崎魚類仲買(株)は解散することになります。これによって、配給体制を支える組合組織が整えられ、戦時集荷体制が確立されました。

    • 終戦前の集荷体制
       
      昭和20年に入ると国内も戦場場同様となって、漁業の生産量は減少し輸送力低下という状況の中で、県内の集出荷を強化するために県告示により「鮮魚出荷統制規則」が制定されました。これに基づいて4月に「長崎県魚類出荷組合」(菅野一郎組合長)が創立されて鮮魚の集出荷業務を取扱うことになりました。長崎に水揚げされた魚類は、次の三組合によって集配が行なわれていました。
         長崎県魚類出荷組合・・・集荷と荷受
         長崎市鮮魚介統制出荷組合・・・出荷配給
         長崎鮮魚介荷受配給組合・・・市内販売


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2.戦時体制下の水産業
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  • 漁船の状況

    • 漁船の喪失
       
      戦争が漁業に影響を及ぼすのは大型の母船事業に始まり、その後を補うかたちで底曳船やカツオ・マグロの中型漁船が次々に徴用されて、軍需輸送や哨海任務に配置されますが、そのほとんどは戦争の犠牲となりました。大型母船では昭和18年4月、第二日新丸が台湾沖で撃沈されるのを皮切りに、昭和19年8月の極洋丸まで六隻の消耗がいかに大きかったかを示しています。20トン以上の登録漁船の比較では、カツオ・マグロ船518隻、底曳船415隻が著しく、どちらも50トン以下の小型船を消耗しています。官庁船では昭和9年3月、長崎県水産試験場所属の鶴丸も徴用を受け、北方戦線繊維に出動しました。

  • 漁業の状況

    • 遠洋漁業の被害
       
      昭和17年頃から、漁業資材の不足に加えて漁船と漁船員の徴用が相次ぎ、昭和19年以降は東シナ海・貴海・近海の別なく全漁業とも出漁船が減少して、急激な漁獲減の道を歩み始めました。特に日米開戦後は九州近海も安全ではありませんでした。操業中の50トンに満たない木造漁船も潜水艦や航空機の攻撃を受け、徴用された漁船も次々と沈没して行きました。

    • 以西底曳船の喪失と壊滅
       昭和14年までは、内地根拠船608隻のほか、外地555隻、計1163隻と膨大な数の許可船が操業していました。これが、昭和19年には、林兼商店許可船98隻に対して捨て操業船が20隻、日本水産許可船31隻に対して4隻、その他、底曳組合船籍の451隻に対して75隻と操業船は激減し、喪失船舶は、計480隻にのぼりました。本格的な漁獲高の減少は操業海域が危険水域となった昭和17年からで、18年には16年の二分の一、昭和20年には十分の一以上と激減しています。昭和13年、72隻を保有していた日本水産手船繰船は、終戦時にはわずかに8隻を残すのみで、他はすべて緒戦段階で徴用され全船帰還することがありませんでした。これに対して保有船舶数で最大規模に達していた林兼商店長崎支店(昭和10年の時点で底曳船40組、延縄船23隻)は30余船を徴用されますが、他経営の休止漁船を買収して昭和19年までは保有組数の6割に当たる19組を稼動させていました。しかし翌20年の終戦時には9組に半減するなど、戦禍の激しさを数字が物語っています。戦時中は会社が保有する船舶一覧などは極秘扱いとされていて、一切公表を禁じられていましたし、それに終戦と共に、戦時中の証拠隠滅のため資料のほとんどは焼却処分されたといわれています。

    • トロール漁船の喪失
       
      トロール漁業の全盛期は昭和13年までで以後は掃海艇など軍事用に転用されたため、稼動数は激減して、昭和19年には日本水産3隻、林兼商店4隻のみとなり、漁獲高も昭和9〜13年平均の16%という壊滅ぶりでした。この時期の出漁船の様子を、「波間に漂う木片を見ては敵潜水艦の潜望鏡かと緊張し、空と飛ぶ鴎を見ては敵機来襲かと怯える日々の連続・・・」と安心した操業もままなりませんでした。戦争の激化によって、人と船舶の被害は日を追って増大し、残された老朽漁船をかり立てて命がけの操業が続けられました。昭和20年3月4日、椎木豊吉の第一・第五豊盛丸は女島西南沖で操業中、二隻の潜水艦に包囲され艦砲の乱射を受け、ひとたまりもなく沈没し17人が帰らぬ人となりました。続いて4月14日には、林兼商店の第十一・十ニ大漁丸が中国舟山列島東方海上で操業中、潜水艦の攻撃を受けて沈没、8名が死亡するなど、洋上の悲劇が相次ぎ漁船は東シナ海域から次々に姿を消して行き、この年には近海に船を出すことさえ命がけの状況下でした。大正5年(1916)若冠33才ながら延縄船一号・万生丸の独立船主となった徳島県三岐田町出身の高田万吉は、戦前、底曳船15隻、延縄船3隻、旋網船4統、運搬船などを持ち、大正14年(1925)の納税額は17万円余り、長崎の個人所得者では筆頭、日本一の猟師といわれましたが、第二次世界大戦終戦のとき残っていたのは老朽化した底曳船3組のみでした。

    • 揚繰網の壊滅
       揚繰網漁業も例外ではありませんでした。昭和16年、漁業用物資の配給、漁獲物の出荷調整、操業規則などの戦時統制協力を目的に長崎県揚繰網漁業組合が設立されました。漁船が小型であったのが幸いして船の徴用は免れたものの、漁夫の兵役、漁業用燃料、資材の配給規則強化など労働力と物不足の厳しい操業環境が深まって、生産は次第に低落していきました。

    • 生産抑制と低迷する魚価
       
      戦前の揚繰網漁業者で、自社運搬船を所有していたのはほんの一部で、他はすべて漁獲物の買付、運搬を鮮魚運搬組合に依存していました.昭和17年に入ると、一連の水産物価格、流通の統制に伴って、イワシの現地公定買付価格プラス運搬費が、消費地公定価格を上回るという減少が
      .起きました。運搬船組合は利益確保のため買付価格の引き下げを求めましたが、生産者側の反発を買って出荷が激減しました。原因は生鮮イワシの価格が生産原価を無視した定価に固定されていたからでした。当時設立された公定価格は買付価格十貫目当たり4円80銭、消費地価格は7円40銭だったので、これに運搬費を加えると8円48銭となって集荷時点で原価をオーバーしてしまいます。一方、加工イワシ、塩蔵15円、塩干20円と現地加工の方がはるかに有利でした。昭和18年には網元加工業の原料確保が優先されて生鮮イワシの供給不足が深刻化し、イワシの主要産地である五島でさえも原料事情のためトマトサーディン工場が閉鎖されました。こうした生鮮魚出荷の抑制は鮮魚運搬船組合に買付活動の低下をもたらし、昭和10年以来,五島イワシと親しまれ取引を発展させてきた長崎魚市場との関係も疎遠となっていきました。なお、昭和19年の県内揚繰網許可統数は、動力揚繰巾着32統、縫切網297統となっていますが、洋漁業の長崎魚市場への水揚量は不明です。

  • 海洋漁業の統制

    • 水産統制令 
       
      戦争遂行のために水産業界に課せられた任務は、国家管理下での食料増産でした。海洋漁業を統制するための水産統制令は、昭和17年に公布されました。その骨子は、まず漁業各社から漁船・施設を現物出資させて加工販売を行なう帝国水産統制鰍置き、次ぎに統合された水産会社に漁船を貸し付けて漁労をおこなわせるというものでした。

    • 資本漁業の統制
       
      これについて、会社設立の過程と性格を異にする各社の中で、特に日本水産(株)・日魯漁業(株)・(株)林兼商店の三社が強く反対したため,原案は大幅に修正されて次ぎのように決定しました.
        中央機関    帝国水産統制
        下部組織    海洋漁業の統制会社は、三大資本漁業毎に系列を統合して、
                  1、日本水産系  日本海洋統制
                  2、林兼商店系  西日本漁業統制
                  3、日魯漁業系  北日本漁業統制
                  に再編しました。
       以西底曳漁業界も同時に統合される予定でありましたが、整理が遅れて見送られました。その代わりに、帝国水産統制鰍ノ出資する形で「以西底曳帝国水産鰹o資組合」が組織されました.これを母体として、昭和19年9月に「西日本底曳水産組合」が設立されて戦時統制に組み込まれていきました。これが形だけは整ったものの、既に漁船と資材は欠乏して出漁不能船が続出、統制の効果を発揮しないまま遠洋漁業は壊滅に追い込まれていきました。昭和19年に入ると日本の敗色はいよいよ濃厚となって、諸資材は底をつき漁業もそのために麻痺状態に陥っていきました。

    • 水産業団体法の公布
       昭和17年、水産統制令の公布によって海洋漁業が一本化されますが、これに続いて沿岸団体も、昭和18年3月の水産業団体法によって設けられた中央水産業会・製造業会のいずれかに属することとなりました。これによって各地の漁業協同組合は漁業会へと衣替えし、民主的な協同組合の思想は実質的に失われてしまうこととなりました。中央水産業会の目的は、海洋漁業を除く全水産業の統制と食料増産にありました。したがって事業の柱は、漁協の指導や漁村経済の向上ではなく、政府の補助行政機関の立場での生産督励と生産物の統制、物資の配給統制でした。

    • 健闘する長崎の沿岸団体
       
      昭和17年の漁業協同組合数は2998組合に達して、系統育成の政府方針が浸透していった様子が伺えます.漁業の経済活動を見ると、昭和17年の販売事業で長崎は2000万円と、北海道に次いで全国第二位。購買事業でも長崎は390万円と全国第二位の事業成績を上げています。全国組合員の漁業生産高は6億円と前年の18%増となっています。沖合・遠洋漁業の総漁獲高が減少傾向の中にあって、沿岸漁業の生産高が伸びているのは、政府の増資奨励助成に加えて、資材の配布が漁村優先であったことを示しているといえるでしょう。長崎県でも昭和18年9月公布の水産団体方に基づいて、長崎県水産会と漁業組合連合会が合同して水産業会及び長崎県水産物製造業会が設立されて、戦後の新水産業協同組合法の成立で漁村での指導的役割を果たしていきました。


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3.占領下の水産業
 
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  • 占領下の水産業

    • 航行禁止
       
      昭和20年8月15日、日本は連合国側に無条件降伏をし終戦となりました。それまでの価値観は、それを境に崩れ去り、日本は進駐して来た連合国軍最高司令部(GHQ)の軍政下で新たな思想、民主主義を身に纏うことになりました。それに従って水産業界の様相も一変しました。徴用と空襲に痛めつけられた漁業の不振は、他の産業と同様に深刻でした。加えてGHQの占領政策は当然漁業にも規制が加えられ、その第一段として、あらゆる船舶の自由航行禁止が布告されました。日本漁業は戦時中にほとんど壊滅的な打撃を受けていましたが、戦後はその出漁さえも禁止されることになりました。15年間の戦争がもたらしたものは、国土の荒廃と死と隣合せともいえる極度の飢えでした。この様な状況の中で動物性たん白食糧を供給するためには、さしあたり手近な海洋資源へ依存するほか道はありませんでした。

    • 出漁許可
       GHQは昭和20年9月27日、一定の条件の下に船舶航行制限を緩和しました。いわゆるマッカーサーラインと呼ばれる一定の区域内での出漁・操業が許可されました。戦禍を逃れて生き残った老朽漁船は、満足に操業できる状態ではありませんでした。例えば昭和20年12月の以西底曳許可隻数は151隻でありましたが、稼動船はわずか20隻に過ぎませんでした。政府は昭和20年9月、食糧確保緊急措置を決定。「水産食糧の増産を図ること緊要なるをもって、急速に残存船の修理を完了すると共に、新たな漁船所要数の補充をなす」との方針の下に、漁船33万トンの補充が具体的目標として揚げられ、日本漁業復興の道が開かれました。西日本地区においては廉価で多獲性大衆魚のイワシを漁獲対象とした揚繰網漁業と、過去の漁獲実績を有する以西底曳網漁業の急速な復興が、消費者の一致した切なる願いでした。

    • 遠洋漁業の復活
       
      戦後の東海・黄海における以西底曳網漁業は、逼迫した食糧事情の緩和に非常に大きな貢献をしました。長崎から戦後初めて出漁した名誉ある第一船は、大洋漁業(株)長崎支店所属の木造船第81・82大漁丸でした。出港は昭和20年10月7日、原爆被災から僅か2ヶ月後のことでした。以西底曳船の乗務員の大半が消息不明とあって、人を集めるのに最大の苦労をしました。加えてまとめて資材はなく、準備にさんざん手間取って、1組の船を出すのに1ヶ月を要しました。氷は原爆の被災を免れていた大洋漁業(株)土井首冷蔵庫から積む事ができました。「コンパスと海図だけが便りの操業で私の勘と経験から漁場を選定した。船内には浴室もなく、清水も限られていて洗顔など満足にできない居住環境でした。食糧事情は極端に悪く、魚をすり潰した団子入りの雑炊で腹を満たしながら操業を続けた」(北里兼吉漁労長談)という懐古談もあります。

    • 以西底曳網漁業の復興
       以西底曳業界は、昭和17年頃から漁業資材の不足に加えて、漁船と漁船員の徴用が相次ぎ、昭和19〜20年にかけての東海・黄海漁場は休漁も同然の状態でした。従って魚資源は極めて豊富で、遠洋はもちろん日本沿岸でも出漁すれば面白いように魚を獲ることができました。漁業復興の方針が明確になるにつれて、既存の漁業者ばかりでなく、他産業からも漁業経営に参加するものが現れました。特に安定性で秀れた以西底曳網漁業が着目され、昭和23年3月までに685隻の以西底曳船が建造されています。この漁船建造に比例して許可隻数も年を追って増加し、昭和22年4月の時点で戦前の隻数を超え、24年末には968隻に及びました。

    • 増大する漁獲量
       操業隻数の増加に伴って漁獲量も多くなり、底曳網漁業は昭和23年、トロール漁業は24年に戦前水準(昭和15年)の漁獲量を超える成績をあげています。このことは食糧事情の劣悪な当時としては貴重なものでした。以西底曳網の出荷実績を昭和23年度で見ると、年間通算で農林省出荷指示量の119%となっています。特に関西市場においては、入荷量の50〜80%は以西底曳網の漁獲物で占められており、他種漁業に比べて格段の貢献をなしていたと言えます。長崎を根拠地とする以西底曳漁船は、昭和8〜9年頃は28組、16年頃には51組と増加し、戦後の昭和25年には116組、29年には133組の大勢力となりました。昭和25年の以西底曳漁船の年間総漁獲量は約5200万貫となっています。そのうち40%、1750万貫が長崎魚市場に水揚げされています。そしてその大部分が遠く関東、関西にまで貨車輸送されました。

    • 漁船の建造
       
      建造に歩み出しました。政府は船さえ造れば漁業許可は出すという時代でした。大洋漁業鰍ヘ昭和20年9月に早くも役員会を開いて、漁船216隻・2万160トンの建造を決定して全国の造船所に発注しました。長崎では以西底曳漁船60隻と捕鯨母船(日新丸)、塩蔵運搬船(天洋丸)各1隻が三菱長崎造船所に発注されました。徳島県漁業者グループも、10月には鋼製の以西底曳漁船60隻を三菱長崎造船所に発注しました(起工は昭和21年2月)。昭和21年7月には徳島商店漁業部、9月には興洋漁業、10月には山田屋商店と、当時の造船業界はまさに底曳漁船の建造ラッシュ時代でした。

    • 三菱長崎造船所と漁船
       
      『三菱長崎造船史』(昭和26年発行)によると、「終戦後しばらくの間は、全面的虚脱状態のため米軍への労務提供等に時を過ごしましたが、その後GHQ及び政府当局の指令に基づき、ようやく続行船工事が再開されるに至り、いささか前途に光明を得て、生産への気運がただよいはじめました。また漁船建造の許可に伴い、大洋漁業(株)・興洋漁業(株)・丸徳海洋漁業(株)・山田屋商店・徳島商店などの注文で、55トン・75トン型底曳網漁船をはじめ160トン型鰹鮪船、270トン型トロール船などが、かつて戦艦武蔵その他幾多の優秀艦艇を建造した大船台において続々建造するに至った」と記されています。本来ならば船台に船を縦において造るのだが、この時代は小さな漁船をメザシのように船台一杯横に並べて造るという前代未聞の方法で、出来上がると軽々とガントリークレーンで吊り上げては、次々と進水というよりは海面にボチャンと落としていくというあり様でした。第1船は大洋漁業(株)の底曳船「第1大漁丸」で、起工を昭和20年10月26日、進水を21年1月22日、完工を21およそ似たようなものでした。このように戦後、以西底曳・トロール漁船の復興に大きく寄与しましたが、何といっても1世紀以上にわたって培われた信用と造船技術を発注側は見逃すはずがありませんでした。新造船の70%は同所で建造されたものではないでしょうか。漁船構造の主流が鉄鋼製に移ったのも、発注者の意向によるものでありますが、昭和22年には木鉄交造船18隻が完成しています。受注したときは戸惑ったでしょうが、そうはいっておれない時代がありました。各社、それそれ由緒ある船名を持った底曳船でありましたが、標準タイプは、船長21.8メートル、船幅56メートル、深さ2.52メートルの55トン型で、起工から75〜80日くらいで引き渡されていました。。戦後の造船業界を最初に活性化させ、長崎市民に復興の意欲を燃えたたせたのは、いち早く戦禍から立ち直り、漁船を発注した水産業界でした。

    • 狭すぎた制限漁区
       
      当時の以西底曳漁場は、マッカーサーラインに囲まれた東海の一部にすぎませんでした。戦前の操業範囲と比較すれば、底曳網漁業では30%、トロール漁場は15%の海区内に押し込められ、主要漁場ははるか制限漁区の外側にありました。マ・ラインによる漁場の制約は、以西底曳漁業戦後史のなかで特記すべき重要問題でした。昭和20年9月の第一次拡張で操業区域は3万6000平方海里、昭和21年6月の第2次拡張で、7万平方海里と戦前(21万2000平方海里)の約30%に回復されましたが、それがそのまま講和条約発効直前まで継続されました。そのため復興をめざす以西底曳漁業にとっては大きな隘路となりました。

    • 減船整理
       
      この狭い漁場に戦前以上の漁船郡が殺到して操業したため、戦時中に資源回復したと思われていた漁場も急速に荒廃の徴候を示しはじめ、その結果、制限漁区をるために、昭和25年、第1次の減船整理を実施するこになりました。これと併行して、50トン未満の108隻に対しては、創業海域を統計127度30分以東、東経130度以西に制限しました。これがいわゆる中間漁区線です。
      こうして第一次減船は9月13日、242隻。第二次は11月17日、39隻が指名されました。減船は統計で285隻となり残存船数は710隻となりました。またトロ−ル漁船は統計で11隻が減船され残存隻数は47隻となりました。政府は昭和27年9月「以西底曳網漁業対策要綱」を発表し、従来の中間漁区線、統計130度に替わって128第一次減船整理の対象となった西日本の各県別隻数は表14のとおりです。手繰船(以西底曳漁船)は、昭和22年の677隻から推測すると40%の約270隻が長崎組でありましたが、そのあと外地で操業していた業者が引揚げて来て許可を貰ったため(川南水産、共和漁業、長門漁業)、昭和23年には西日本地区で909隻と激増していきました。このように狭い海域で入り乱れての操業なので、まもなく資源問題が起こり昭和25年には一率30%の減船が行なわれました。


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4.戦争末期の長崎魚市場
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  • 水揚高激減

    • 国内状況
       昭和20年、連合軍に制空・制海を握られた日本は、軍需産業を始め国内のあらゆる生産は停滞し、主要都市は砲爆撃に曝され次々と壊滅していきました。輸送機能は寸断されて、食糧を確保するのは極めて困難な状態でした。

    • 魚市場の水揚げ
       
      戦争遂行のために食糧増産の使命を課された水産業も、戦争の拡大につれて乗務員と共に漁船も徴用され、細々とした配給に頼っていた資材も遅配・欠配続きで到底出漁できる状況ではありませんでした。そのために昭和16年、長崎魚市場の水揚高は1700万貫(6万3750トン)であったものが、昭和20年には200万貫(750トン)と、さしもの長崎魚市場も開店休業の状態に落ち込んでいきました。

  • 長崎魚類出荷組合の設立

    • 新組合の発足
       
      昭和20年4月、設立総会を終えた長崎県魚類出荷組合は、県下の組織を整えて5月1日から業務を開始しました。
        長崎県魚類出荷組合
         所在地   長崎市尾上町無番地
         専務理事  一名、 理事 八名、 監事 二名(警察署長、地方事務所長)   参与 三十五名(各地漁業組合長)
         組合長ほか役職員の合計は120名の大世帯でした。

    • 活動開始
       5月1日の業務開始に向けて、組合はすぐさま活動を開始しました。 
       4月13日、県下の各漁業会、運搬船組合員その他へ会議資料を通達、そのほか事務用として長崎県宛白紙一万枚の配給方を申請・・・(この時期、事務用紙の調達もままなりませんでした)。4月23日、平戸口鮮魚介集荷場に陸軍三部隊宛にそれそれ2900貫、400貫、400貫の鮮魚介納入に万全を期され度、と念を押しました。北松・対馬支部宛、職員任命を促進するよう指示。4月27・29日、産地漁業会、運搬船組合、東京以西の水産物統制梶A中央水産会、福岡・佐賀両県下の各魚市場、漁業統制活カに対し組合発足の挨拶状を発送。

  • 昭和20年8月9日

    • 原子爆弾投下
       昭和20年8月9日午前11時2分、長崎市は一発の原子爆弾によって、死者7万3884人、重軽傷者7万4909人、被災人員12万820人、全焼家屋1万1574戸、全半壊家屋6835戸、焼失土地面積303万1000坪という壊滅的打撃を蒙り、人口27万人
      (2月現在)の長崎市は一瞬にして死の町と化してしまいました。翌10日には、長崎県・長崎市・軍が一体となって活発な救護・救援活動が展開されました。被爆を免
      がれた学校・寺院に設けられた臨時救護所には多数の負傷者が殺到して混乱を極めました。原爆投下の8月9日には救援列車四本が運転され、10日には、電話・電灯も復旧し、近隣の市町村からは救援の「にぎり飯」が届きました。被災者1人当たり2個ずつが配給されて、やっと気を取り戻すといった状態でした。

    • 魚市場壊滅
      長崎魚市場も第三魚揚場を除いて、すべての市場施設が灰燼に帰ってしまい、市場業務も混乱と停滞の中で8月15日の終戦日を迎えたのでした。
       魚市場がいつ頃から活動を再開したのかは不明ですが、『裸の人生・小吉栄次』によると、「・・・・・・中部さんは魚市場を来月から再開したいと言われ、中部さんう員の職場復帰も完了したので、9月1日から業務を再開しました。ところが鮮魚の入荷はなく、軍用として備蓄してあった缶詰2000函を長崎県水産課から貰い受け、市内の病院や一般用に配給したくらいのことで、これがいわゆる魚市場の再出発でした。その後少しずつ入荷もふえてきたので・・・・・・」というのが実状であったようでした。長崎県は長崎市の復興に全力を注ぐため、8月22日緊急本部を設置、技能・労務者800人を動員して市内の主要施設の応急復旧に着手しています。食糧事情が極度に逼迫していた当時のことゆえ、長崎魚市場の復旧は仮設ながらも優先して行われました。9月5日に長崎県魚類出荷組合本部は、元船町1丁目3番地に開設された水産関係団体総合事務所に移転して業務を再開しました。9月12日、原爆で被災した佐々木幸雄、原幸一、木下益太郎、古川大蔵、板坂貞一に各々300円の見舞金が贈られました。「原爆によって家族に犠牲者を出せる者なし」と喜んだのも束の間、10月14日、対馬支部より「イタニジチヨウ、ウチアワセノタメ10・14ヒ、タママルニテシユツチヨウチユウソウナンシ、ユクエフメイトナル」の緊急電報が飛び込みました。本部からは折返し「ゼンシヨコウ」の返電を打つと共に、対馬支部宛に「井谷次長、当部へ業務打ち合わせの為御出張中、珠丸にて遭難行方不明と推定との電報に接し驚愕、誠に痛恨の極みに不堪候。捜索その他に関し萬遺漏なき様ご処置方御願傍々書中を以てお見舞い申述べ度く」と意のあるところを伝えています。井谷次長は、対馬壱岐支部組合員の懸命の捜索にもかかわらず、再び姿を現すことはありませんでした。11月18日、対馬支部長・長信楽は、組合長・菅野一郎宛、弔慰金贈与を申請しました。

  • 戦時下の長崎

    • 食料危機と統制
      昭和12年7月7日、中国・盧溝橋での日中衝突をきっかけに始まった戦争(日中戦争の発端)は長期化の様相を呈してきました。戦時体制を強化し、総力戦に備えるため、統制経済は徐々に市民生活に影響を及ぼすようになります。昭和14年10月の価格統制令の公布をはじめ各種の統制令が次々と施行されて、石鹸・薪・マッチ・ローソク・履物などの日用家庭用品、鮮魚・漬物・味噌・調味料などの食料品のほとんどにも配給制が敷かれました。昭和13年には、長崎市の恒例行事であった「ハタ揚げ」は中止され、「精霊流し」は自粛、「ペーロン競争」は港内から消えてしまい、辛うじて「くんち」だけが遠慮がちながら奉納されました。

    • 市民の食生活
       昭和20年9月、連合国軍側に無条件降伏した日本政府にかわって、連合国軍最高司令部(GHQ)は、秩序回復のため軍政を敷き、日本の国家体制を民主主義国家へと大改革に着手しました。戦争終結によって、食糧品の集出荷体制は基本理念から組替えられることとなりました。あらゆる統制の枠が撤廃されるのは必然的な動きでありましたが、それと同時に戦後の食糧危機を乗り切るために、新しい体制が必要でした。
       15年間にわたる戦争によって、日本は国力を消耗し尽くし、備蓄食料も底をついて、今日の食物にも事欠くあり様でした。人々は食を求めて、農漁村やヤミ市場に殺到しました。外国からの食料援助も焼け石に水でありましたし、ヤミで手に入る食料品の価格は、公定価格の十数倍の値段で、一般庶民はわずかな配給食料に草を加え、木の実を混ぜて飢えをしのばねばなりませんでした。そのために食料品の統制は昭和23年まで廃止・公布が繰り返されました。尾上町の長崎魚市場と長崎駅の中間空地には、鮮魚主体の露天市場が出現して、市民の口腹を養ってくれましたが、あまり上物は置いてなかったようでした。漁業は農業とちがって戦争による出漁不能という被害を受けましたが、逆にそのために資源保護が計られたといえます。舟を出せば魚はいくらでも獲れました。いわば魚類は、戦後飢餓時代の救世主的存在でした。昭和21年から22年にかけて、市民の関心事は食料の確保でした。政府は買い占めや物々交換などを禁じる「物価統制令」を公布するなど、経済安定策を相次いで講じたが十分な効果は上がりませんでした。青年一人に対する主食配給は一日当たり二合一勺(297c)、これには主食の代用としてサツマイモ、ジャガイモ、大豆などが多く含まれていました。しかも、「県下の遅配5日、見通しも暗い、月末には15日に及ぶか」(昭和21・11・18「長崎新聞」)の様に、慢性的な遅配、欠配傾向が続き生活は窮乏を極めていました。市内の国民学校の児童が「私たちを助けて下さい」と食料供出願いの手紙を書き、これを持参して先生の供米行脚まで行われました。昭和22年には、ある地方検察局の検事が立場上、配給だけの生活を守ったために栄養失調で死亡するというような悲劇も起きました。配給だけでは生きていけない日々を乗り切るために、県市民はヤミ食料と交換に衣類を一枚一枚はぎ取るようなタケノコ生活を強いられていました。昭和22年7月、食糧危機突破市民集会が開かれました。7月5日には飲食店が一斉休業に追い込まれました。同年5月9日朝、乗客130人を乗せて時津を出向した幸丸(13トン・定員60人
      は、村松村の沖合い100メートルの地点で波浪のため沈没。52人を救助しましたが死者21人、行方不明約50人を出す大惨事が起きました。乗客のほとんどは長崎から食料の買出しに出かけた人たちでした。そのころ長崎駅に到着する列車は、ヤミ米・ヤミ芋の買い出し客であふれていました。当局の目をくぐり抜けながら多くの市民はこうして飢えをしのぎました。その中に、戦禍によって家族と生き別れとなった戦災孤児の姿もありました。昭和23年の調査によると、県内の孤児の総数は2300人余、このうち350人が本河内の聖母の騎士園などの養護施設に収容されていました。「子供たちは食事当番を『かすり当番』といって喜んで勧めました。鍋の底についたご飯粒を食べられるからだ。」と、今日では想像もつかない時代を必死に生き抜いたのでした。昭和23年11月から、主食の配給は二合三勺から二合七勺へと若干改善されますが、食糧事情の好転は昭和25年まで待たねばなりませんでした。

    • 公定価格の変動
       昭和21年4月1日、水産物統制令の公布とともに鮮魚介類の公定価格が再登場しました。20年11月に統制が撤廃されて以来、わずか4ヶ月で再統制されることとなりました。この制度は200種類にのぼる鮮魚介類を11等級に分類しれ、消費他の卸売価格を査定し、小売価格はその2割高と定められました。しかし、この価格は水産業界における採算点からして余にもかけ離れた低価であったために、鮮魚の出回りは極度に悪化し、このままでは生産者、市場業者ともに死滅のほかはないとして、昭和21年12月、暫定価格の設定を要望しました。政府はやむなく、昭和22年1月15日までの期限付きではありますが、これを黙認せざるを得ませんでした。これが第二次の公定価格でした。このあと政府は、インフレの進行と業界の要望に後押しされる形で、次々と公定価格の改定を重ねていきました。

    • 統制の緩和
       
      この頃より食料事情もやや好転して、統制方式の改善よりも撤廃の声が強くなりはじめ、昭和24年九月、生鮮水産物配給規則と加工水産物配給規則の一部改正を行い、生鮮水産物18品目、加工水産物4品目についてのみ価格配給統制を残して、その価格を約30%引上げ、10月15日から統制の大幅緩和に踏み切りました。水産物に関する限り絶対的な物不足時代はここで終わったのでした。政府は昭和25年4月1日をもって水産物の配給及び価格統制の撤廃を発表し、ここに長期にわたった物価の統制が終わりを告げることとなったのです。

    • 魚類の配給機構
       配給機構にも大きな変化がおとずれます。戦時中の統制三機関を解散して、新生長崎魚市組合に統合されたほか、昭和20年九月、公認集荷機関として、長崎水産物集荷組合・長崎県水産製品集荷販売組合・長崎県水産物第1集荷組合・長崎県水産物製造業会が認可されました。荷受機関としては、長崎県加工水産物荷受協同組合・長崎県水産物卸商組合が認可されてそれぞれ発足しました。

    • 物流の入出荷計画
      戦後に於ける生鮮魚介類の集出荷は、次の規則によって行われました。
       遠洋物・沿岸物の全漁獲物は、漁業者及び県下168漁業界によって、県内の甲級陸揚地(長崎港、佐世保港)又は乙級陸揚地で集荷され、陸揚地の集荷機関は指令に基づいて出荷する。
       甲級陸揚地(農林大臣指定)長崎市の公認出荷機関ー長崎魚市組合
       乙級陸揚地(県知事により登録を受けた乙級出荷機関が陸揚出荷を行う)これには136漁業会がありました。
       出荷計画のすべては長崎県水産部において策定され、常に最低漁獲量を見込んだうえで、計画以上の実績をあげなければなりませんでした。
       
       @県外出荷  農林省より毎月出荷割当指令があり、長崎県水産部を経由して          長崎魚市組合に通達される。
       A県内出荷  農林省指令中「その他向け」の範囲内で、長崎県水産課、長崎県          水産業会及び長崎魚市組合の三者調整が計られ、その結果に基          づいて知事より出荷指示がなされる。
       B出荷計画達成のためには、現地の実情把握と出荷の懇請を兼ねて、主要漁村での出荷督励懇談会、打合会を開催し、鮮魚出荷者に対しては、酒・煙草・繊維製品・釘等のリンク物資を特配したり、成績優良機関に対しては表彰などを行うなど、徹底した集出荷の督励策がとられました。


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5.戦後の水産行政
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  • 水産統制令の廃止

    • 資本漁業の再出発
       
      昭和20年12月1日、政府は水産統制令を撤廃しました。これによって昭和17年5月の公布から統制会社に衣替えした水産各社は、それぞれ新体制で再出発をすることになりました。帝国水産統制(株)は昭和20年11月の総会で日本冷蔵(株)に改称し、帝国水産時代の164残存冷蔵庫で発足しました。日本冷蔵(株)は、冷蔵庫の利用者を漁業に求める以上、自ら漁業を営むことを断念し、冷蔵庫の高度利用、加工事業に専念する道を歩むことになりました。西大洋漁業統制(株)は昭和20年12月1日、西大洋漁業(株)に改め、さらに15日、大洋漁業(株)に社名変更しました。同社は終戦一ヶ月後の9月15日、第1回の役員会を開催して再建方策を検討し、216隻、総計2万トンの漁船建造を決済しています。このすばやい決断が、戦後の漁業生産最高の担い手に成長する基礎となったのです。戦時統制で国に協力的であった日本海洋漁業統制(株)は、陸上部門を日本冷蔵(株)に譲渡し、南氷洋捕鯨、カニ工船を昭和20年12月、日本水産(株)と改称して再発足しました。昭和21年8月、他社に先んじて制限会社に指定され、債権の変動、借入など、すべて大蔵省の許可を要することとなりました。日魯漁業(株)は、水産統制に積極的にかかわらなかったこともあり、社名に組織変更もなく、そのままの形で継続しますが、他の水産企業との競合分野とは無関係に北洋サケ・マス漁業に専念していたため、終戦の結果、事業の99%を失い、その影響は他社に比して深刻でありました。再建の第一歩は未経験の以西底曳漁業への進出で、トロール船10隻、底曳漁船20隻を建造、下関に支社を置いて操業を開始することとなりました。極洋捕鯨株は持船12隻をすべて喪失しますが、1年後には捕鯨船7隻で再スタートしました。昭和21年、捕鯨母船の建造が間に合わなかったために、南氷洋捕鯨出漁のチャンスを逃し、22年には南氷洋捕鯨2船団の枠内に入る事ができませんでした。この2年続きの不運が会社再建上致命的な打撃となり、昭和30年の南氷洋捕鯨出漁まで社運に重大な影響を及ぼすことになりました。

    • 新興企業
       老舗の漁業各社はそれぞれ戦前の経験を生かして、何とか企業を復活させて戦後復興に大きな貢献をしますが、戦後乱立した多くの水産企業はインフレの昂進、金融引締め、資材の払底などの悪条件に敗れ、昭和25年頃にはその大半が消滅して、生き残ったのは宝幸水産(株)・報国水産(株)の2社のみでした。経験を積んだ人材を必要とし、自然を相手とする漁業の経営はそれだけに難しかったといえます。長崎市でも、川南工業(株)水産部、才川水産部、共和水産(株)、長崎漁業(株)など十指に余る漁業会社が創設されましたが、いずれも吸収、合併、解散と極めて短期間の寿命で終わっています。先進漁業国として、世界の7つの海に君臨した日本の戦後漁業も、次第にさまざまな漁業規制や後進国の追い上げを受けて、世界の海から締め出され、戦後輩出した新興漁業群のような道をたどることにもなりかねない状況がありまし。長崎の業界は、大洋漁業(株)・山田屋・丸徳海洋漁業(株)をはじめ各生産者が競って、三菱造船(株)などに漁船の建造を発注しました。大洋漁業(株)も昭和20年10月に55トン型手操船60隻を三菱造船(株)に発注し、進水を待ちかねて、片っ端から東シナ海に出漁させています。

  • 水産業協同組合法の成立

    • 漁業協同組合の誕生
       戦後の漁村経営を規制した法律には、明治19年(1886)の漁業組合準則、明治34年(1901)制定の明治漁業法、昭和13年の改正漁業法、18年の水産業団体法があります。戦争の終結によって、それまで統制一色であった国内法は一掃され、水産関係では漁業制度の改革と相まって、漁業協同組合成立の基本法である水産業協同組合法(水協法)が昭和24年2月に施行され、これによって設立された地区漁業協同組合が、名実ともに沿岸漁業県の運用に携わることとなりました。

    • 漁業協同組合の事業
       水協法に規定されている協同組合の組織は、漁業協同組合、漁業生産組合、漁業協同組合連合会、水産加工業協同組合、水産加工業協同組合連合会、共済水産業協同組合会の六組織で、「組合は、その行う事業によって、その組合員または会員のために直接奉仕する」との水協法設立の目的そって事業活動を続けています。漁業協同組合の行う事業は大別すると次のようになります。
       1.組合員に対し経営資金等の貸出し或いは組合員からの貯蓄受入れを行う信用  事業
       2.組合員の漁業経営又は生活必需物資の供給購買事業
       3.組合員の漁獲物販売事業
      などでありますが、このほか関係事業として、製氷冷蔵事業、漁場経営、教育事業などをすべての漁業協同組合が行っています。

  • 行政の自主再編

    • 沿岸・沖合・遠洋政策
       長い間マ・ラインに閉ざされ、総てGHQの指示に従ってきた日本の水産行政は、講和条約発効で主体性を取り戻して独自の道を歩み始めました。昭和27年、水産庁は今後の漁業政策を「沿岸より沖合いへ、沖合いより遠洋へ」と拡大充実の方針を打ち出し、次々と実施していきました。例えば、トロール漁業は以西操業を廃して遠洋トロールに進出させ、中型底曳船を北転船に進ませる道が開かれました。その後、関係法令も次々と整備されて、昭和28年7月には「以西底曳網漁業及び遠洋カツオ・マグロ漁業の許可等の幅時特例に関する法律集」が設立して、漁船の大型化が計られる一方、帰郷育成の金融措置も、昭和26年度から農林特融が「農林漁業金融公庫」と機構を一新して、個人融資の道を開きましたが、これは漁船建造、冷蔵施設を促進するなど水産業復興にも大きな役割を果たしました。また、沿岸小型漁船の中からイカ釣り、サンマ棒受け、まき網などへの沖合漁業が発生し、沿岸から沖合の道も着実に進んでいきました。

    • 沿岸漁業の振興
       行政面での沿岸漁業の振興は、漁業協同組合の育成強化に置き換えられて、協同組合の指導監督を柱に漁業協同組合の整備促進、共済制度の実施などからなり、力が入っていました。技術経営面では、昭和34年沿岸漁業振興対策が、36年沿岸漁業構造対策、水産業改良普及事業、漁村青壮年実施活動促進などが実施または継続されていきました。大型魚礁設置も昭和37年度から予算化されるなど、沿岸漁業の振興は昭和30年代の後半から本格化されました。

  • 長崎県の漁業関係機関

    • 水産試験場と水産学校
       明治32年(1899)公布された府県水産試験場規定に基づいて「漁業における試験研究、指導を行う」長崎県水産試験場が33年、深堀村に開設されました。次いで明治36年(1903)には北松浦郡平戸町に移転し、41年(1908)水産教育機関として水産講習所が併設されました。水産振興上、長崎市に移転するのが適当との要請に基づいて、長崎市議会は明治43年、丸尾町の市有地、500坪の無償貸与を決議しました。当時、長崎の漁獲物集散場が年間200万円足らずではありますが、将来発展が見込まれるとのことで長崎市議会も同意したものでした。これによって水産試験場と水産講習所は、明治44年(1911)上西山町諏訪公園内交親館跡を仮庁舎として移転し、大正4年(1915)2月に丸尾町に移転しました。昭和2年9月12日、指導船兼練習船長洋丸は、東シナ海で延縄漁業の試験操業中、低気圧による時化に巻き込まれ遭難し、実習生13名が殉職するという痛ましい事故に見舞われています。水産講習所は昭和10年に廃止され、昭和11年4月、長崎県立水産学校が設置されました。昭和12年10月、土井首村に校舎を新築して移転し水産試験場はそのまま存続していましたが、昭和36年、松ヶ枝町に移転しました。昭和13年には、遠洋漁業訓練生規定(県告示526号)が公布され、航海・運用・機関の技術実習を県水産試験場が担当することとなりました。

    • 缶詰試験場
       明治2年(1869)仏人ジューリーから缶詰製造法を口授された広運舘取締役・松田雅典は、これに改良を加えてイワシ缶詰の製造に日本で最初に成功しました。その後、明治12年(1879)長崎県は松田雅典の提言を入れて、粐粕町(現日本銀行長崎支店)に長崎県立缶詰試験場を開設し、松田を主任に据えて、缶詰の研究を行うようになりました。しかし、まだ実用化の時代ではなかったので明治15年(1883)に閉鎖され、松田雅典に払い下げられました。わずか3年間の研究操業でありましたが、この技術蓄積が大正・昭和期のイワシ缶詰興隆に大きく貢献しました。

    • 関連施設
       水産関連の施設としては、昭和4年、長崎医科大学に野母臨海実験場が設置され、昭和5年8月には長崎県遠洋底曳網水産組合が、長崎県水産試験場内に漁業用無線電信局を開局しています。なお、明治44年(1911)長崎港に停泊している在港船に、毎日正午には赤球、午後9時には赤灯をもって時刻を報知する報時観測所が、大浦の鍋冠山に設置されています(昭和22年、長崎海洋気象台に吸収)。


 

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