1.魚市場(集散場)の成立
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魚市場の発生
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集散場の始まり
原始時代の食生活は、貝塚に見られるように水産物を常用していましたが、採集量は自給の域を出ませんでした。縄文末期(約2,300年前)には稲作が伝わり、やがて米が大きなウェイトを占めてきますが、長い間の食生活は、上層階級を中心に米主食に魚副食の基盤が生まれます。
奈良・平安時代(715〜939)に入ると、人口増につれて水産物の需要も相対的に高まり、漁人(りょうし)は魚を市に出して魚売人に卸したり、米と交換するなどの商業行為が発生します。京都には10世紀頃、市女(いちめ)と呼ばれる魚売り専門の女商人が既に現れていました。
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問屋制度の始まり
都市に魚問屋が生まれ、これが集合して集散場(魚市場)が形成されるのは、17世紀から18世紀にかけてのことです。漁人、魚売人が集まって売買が頻繁になるにつれて、自然発生的に仲立ちをするものが現れ、次第に「市」の機能が芽生えます。やがて、この中から信用あるものが台頭して、大量の商品売買を仲介する卸売商(問屋)が生まれてきます。
その背景は、幕府、藩への納入・用達に源を発しますが、鮮度保持という特別の技術と扱い方を要するために官の保護の下、株仲間を設けて世襲的に受け継がれてきました。
ここでも新規参入禁止等の特権に守られ、藩屋敷や大商家への納入が約束された魚問屋は、これを基に急激に発展していきます。
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卸売市場の成立
大正7年(1918)8月に発生した※1富山米騒動が引き金となって設けられた公設米小売市場は、大正8〜9年頃各地で著しく増加しました。これに対応する仕入機関として中央卸売市場設置の声が政府、関係者の間に高まってきます。この動きを促進したのが、東京市内のコレラ蔓延によって、日本橋魚市場が1ヶ月の閉場に追い込まれ鮮魚流通に大混乱を巻き起こした事件と、大正12年(1923)9月の関東大震災です。
※1【富山米騒動】
米価暴騰のため富山県に米騒動が発生。以後、全国各地に波及。白米小売価格、1升50銭を突破。
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中央卸売市場の発足
中央卸売市場法案は大正13年(1924)3月に交付され、指定6都市も施行されます。これまでの都市魚市場は青果と無関係に、生魚、塩干魚専門市場として発生してきましたが、市場法では青果とともに生鮮食料品として、同一市場に包含されることとなりました。
その後、新市場に入場するために魚問屋が合併して卸売会社を設けたり、仲買人の選定、営業権保証、卸売人の単複論争等が各市場で繰り広げられて、入場完了までに8年の歳月を要しましたが、東京では府の要請で業種毎に1社の卸売会社が実現しました。
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地方卸売市場の発足
生産地では府県令によって、漁業組合あるいは会社組織で地方卸売市場が運営されることとなり、鮮魚は、漁業者→魚市場→仲買人→消費地卸売人→仲買人→小売商を経て流通する仕組みとなりました。
その結果、明治時代から仕込問屋・船宿として栄えてきた商業資本は、出資によって市場経営に参加するか、あるいは仲買人に専業化するかの道をたどることになります。
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長崎の魚類集散場、金屋町に始まる
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長崎の魚類集散場は、寛永年間(1624〜43)金屋町に開設されたと伝えられています。寛文3年(1663)の全町を焼き尽くす大火によって、文書記録の大半が焼失したために、当時の実態は知る由もありませんが、長崎の人口増加と水産物の消費は並行しながら進んでいったはずです。元亀元年(1570)の長崎開港・町建以降、貿易が盛んになるにつれて、町の人口も急激に増加していきます。
町が発展すると消費も活発となり、当然のことながら需給調節の役割を果たす市場の発生を促すようになります。
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消費の増大と変化
そうなると湾内の生産量では需給を賄いきれなくなり、集荷圏は近隣漁村にまで拡大していき、深江浦は生産主体の漁村から消費集散地へと転換していきます。この時代の長崎に水揚げされた魚介類の大部分は地元消費であったと思われますが、※2鎖国時代を迎え唯一の開港地となった長崎は、貿易の需要に応じる必要から水産物加工という新しい産業が起こり、天和3年(1683)には唐船によって俵物が初めて輸出されました。
この頃には、既に貿易を手がける問屋組織が確立されて、加工品の集荷・輸出・販売にあたっていたことが伺えます。
※2【鎖国】
国が外国との通商・交易を禁止あるいは極端に制限すること。17世紀から19世紀中頃まで、東アジア諸国は鎖国対策をとった。江戸幕府は、キリスト教禁止を名目として、中国オランダ以外の外国人の渡米・貿易と、日本人の海外渡航を禁じた。
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集散場の変遷
長崎の魚類集散場は金屋町以後、転々と場所を変えています。理由は明らかではありませんが、急激な人口増に高台での荷捌きが追いつかなくなったことや、寛永9年(1632)中島川の護岸工事が完成して、海陸物流の接点が整備されたため、慶安以降(1648〜)は漁船の接岸可能な場所が選ばれたのではないでしょうか。
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材木町集散場時代
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長崎魚類協同販売所の設立
長崎
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長崎県水産会の発足
長崎魚市場運営の母体である「長崎県水産組合連合会」は、系統的水産団体である郡市水産組合を構造分子として組織されていましたが、大正10年(1921)4月に公布された「水産会法」に基づき、水産業の改良増進を目的に、各水産組合は順次その組織を水産会に衣替えしていきます。
大正13年(1924)4月には長崎市水産会をはじめ、2市7郡で水産会の設立が完了し、長崎県水産会設立への動きが高まってきたため、各水産会同意の下に同年5月16日に創立総会を開催、会則その他の議案を可決の上、長崎県水産会が正式に発足します。
長崎県の水産会発足により、長崎県水産組合が経営していた魚類共同販売事業、並びに輸出水産物検査事業の移管については、県との折衝の結果、ようやく解決をみたので、昭和2年6月、長崎県水産会名で魚市場開設許可の申請を行い、同年6月5日付けの許可指令に基づいて、6月30日臨時総会を開催。2事業の移管と経緯の報告、並びに名称を「長崎県水産会輸出水産物検査所」と改めることを付議可決して、昭和2年7月1日より長崎県水産会が継承運営することとなりました。
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社屋の焼失と復旧
昭和4年11月、創設以来、長崎県庁水産課内に置いていた長崎県水産会の事務所を尾上町の水産物卸売市場内に移転して、人心の一新と業務の円滑化を図ることとなります。
ところが移転2ヵ月後の昭和5年1月、事務所裏からの出火によって本会事務所、水産物卸売市場魚揚場、仲買業者共同荷捌所、及び委託売買業者共同事務所の一部が焼失したため、急拠臨時株主総会を開催し、予算1万4,900円で復旧工事を行うこととなりました。
魚市場の工事は直ちに着工できましたが、事務所その他は、敷地が国の鉄道用地であったために工事許可が非常に遅れ、昭和5年9月末にようやく完成をみて、同年10月6日、盛大な落成式が執り行われました。
また昭和13年1月12日の未明には、集散場付近の倉庫からの出火によって類焼の難にあいます。人身の事故はなかったものの、集散場、魚市場、合わせての損害額は8万2,800円でした。
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2.長崎魚市場の開設
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集散場、中島川河畔からの移転
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魚市場の一本化
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長崎市営魚類集散場の開設
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長崎魚市場の施設概要
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長崎魚市場の設備内容
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イワシ専門市場の開設
長崎魚市場の運営
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3.長崎魚市場施設の整備
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整備された漁港施設
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長崎湾奥部の整備
第1期港湾改良工事《明治10年(1877)着工、明治26年(1893)完工》に取り残された長崎港の湾奥部は、干潮時に土砂が露出して船舶の航行、停泊に支障をきたしていました。
このため、港湾整備の要望が日増しに強くなり、長崎市は議会の承認を受けて明治30年(1897)10月、湾内の浚渫と沿岸陸地を造成する第2期港湾改良工事に着手し、明治37年(1904)約27万坪の浚渫と、大波止、大黒、中ノ島、銭座など18万坪余の埋立を完了しました。
これによって、現在のJR長さ機駅以北に広大な新市街地が形成され、明治38年(1905)には鉄道が長崎駅まで延長されて長崎〜門司間が開通します。
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魚市場の水揚場
竣工した沖見川河口の埋立地前面は、干潮時水深マイナス2mを保持しましたが、延長230mの水揚護岸は、所々に階段を配した傾斜岸壁であったためにトロール漁船は接岸できず、沖がかりのまま漁獲物を※4団平船に積替えて揚陸する不便さを抱えていました。大正3年(1914)長崎県は長崎県水産組合連合会と協議の上、2ヵ年の暫定措置として団平船4隻を並べた係船場を設置し、荷役作業の改善を図っていきます。これにかかった工費は4,900円でした。
※4【団平船】
河川・運河・港内などで雑荷物・魚類などを運ぶ堅牢なはしけ。
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魚市場水揚場の拡張
長崎県は大正3年(1914)に作成した『長崎県産業施設調査書』の中で、「漁港トシテノ中ノ島埋築地ニ於ケル設備及其ノ実行方法」として4案を示しています。
実現をみたのは、長崎駅地先海岸にトロール漁船荷役対策として、
1.魚市場前面海面を干潮時15尺(約5m)浚渫する
2.石垣上部先端より海上に向かって9間(約16m)延長、95間(約170m)を
網干場とする
3.工費7万3,100円で施設整備を行う
などの案で、その背後地に尾上町長崎魚市場社屋が立地したのです。
漁港施設が整備され魚市場が活性化するにつれて、トロール漁船は勿論、沿岸漁船も相次いで入港し、多いときには大小300隻ほどの漁船が謂集(いしゅう)したため、増加する水揚場の処理が度々滞る事態も生じました。
また、鉄道引込線が水揚場と平行に敷設されていましたが、魚の積込みが終われば1車ごとに回転台を使って方向転換を図らなければならないなどの不便さもあって、水揚能力は1日8万貫といわれながら、実際の出荷能力は1日平均20車、5万貫という非能率さでした。
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漁港施設の改良
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大長崎振興会
第2期港湾改良工事で先送りされた元船町〜出島間の沿岸修築工事及び出島臨港船は、第3期工事によって昭和5年3月、ようやく実現にこぎつけます。
この頃、九州の鉄道輸送体系に大変革をもたらす「関門海底トンネル工事」(昭和19年開通)が開始されます。
このような情勢の中で、関門海底トンネル開通後の長崎市の産業と貿易振興に備えるために「大長崎振興会」が昭和14年に結成され、調査検討の結果、長崎港改修計画案なるものが作成されました。
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魚市場の改修
昭和19年3月、長崎市議会で「魚類集散場改築費用起債の件」が可決され、魚類水揚場の護岸改築と魚類集散場の上屋(うわや)及び事務所の改築工事が行われることとなりました。これまで集散場の施設についてはその不備が指摘されていましたが、ようやく改善されることとなります。
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幻の港湾改修工事
この計画の概要は、出島〜尾上町間の岸壁改修、突堤築造、前面海面の埋立、銅座川の変流工事等ですが、このうち集散場施設に関しては、昭和5年10月に完成した延長230m、水深1.8mの水揚場水深が年々浅くなり、大小300隻の漁船が停泊、荷役するには狭小となって、増大する水揚げに対応できなくなりました。
そこで、
1.尾上町地先に、水深3.8mの岸壁190mを、現水揚場場上屋端より約7m
前面に突出して築造し、500t級小型漁船3隻の荷役に利用する。
2.尾上町岸壁には上屋2棟と固定式10t機重機1台を設置する。
ていうものでした。
この計画は第4期港湾改良工事となるはずでしたが、太平洋戦争に突入したため実現には至りませんでした。
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魚市場施設の復旧
昭和20年8月、長崎市に投下された原子爆弾によって壊滅した長崎魚市場は、9月には早くも業務を再開します。
青空市場同然の状態で再開された長崎魚市組合は、厳しい食糧難にあえぐ消費者と漁業生産者の要請に応えて、21年7月魚市場の復旧工事に着手し、尾上町の旧位置に荷揚場、事務所等、延1,160坪の魚市場施設と浮桟橋、鉄道引込線、荷役用コンベア2基等の漁港施設が復旧され、元船町海岸通りに水産倉庫7棟の完成をみたのは22年6月でした。
長崎港は本来長崎市の管理下にありましたが、昭和23年6月、長崎市はこれを長崎県に移管し、昭和25年に制定された港湾法、漁港法によって長崎港の漁港区域が定まり、漁港管理者は長崎県と定められました。
長崎漁港は、このあと昭和35年に特定第3種漁港に指定され、48年には長崎市三重地区も特定第3種漁港に指定され、今日に及んでいます。
明治期から昭和初期にかけての長崎港整備事業は、5次にわたって再開されました。
第1次 明治10年〜26年
第2次 明治33年〜37年
第3次 大正9年〜昭和2年
第4次 昭和3年
第5次 昭和12年
戦後においては、昭和21年9月の公共事業処理要請に基づいて、22年度から漁港施設の整備が公共事業として推進されることとなりました。
戦後の長崎漁港の本格的な整備は、中ノ突堤の築造から始まります。鉄道と直結し、干潮時も接岸容易な荷役岸壁の築造は、漁業者関係者の願いでした。
長崎魚市場の水揚量は8万tを越え、そのほとんど(70〜80%)が遠洋物で占められていて、このうち鉄道によって遠隔地に運ばれるものが地元消費の3〜4倍に達していました。これが長崎漁港水揚げの実体であり、施設拡充を求める第一の根拠でした。
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中ノ島突堤工事
漁港施設の整備拡充については、魚市場の日常業務を妨げぬことを前提に協議が重ねられた結果、昭和23年度から農林省の補助を受けた長崎県が工事主管者となって、尾上町岸壁の南西海面に突堤(中ノ島)を築造することが決定されました。
築造される中ノ島突堤は、
長さ 200m
巾 100m
水深マイナス3m岸壁 300m
水深マイナス5m岸壁 200m
で、トロール船ほか漁船、運搬船なら全て係船が可能であり、突堤の両側と先端部に魚舎、中央部に道路、鉄道引込線を配置するものでした。
当初の完成時期より若干の遅延はありましたが(工事中の昭和26年11月、突堤東側約100mが突如崩壊するという事故が発生した)、約11年の歳月を費やして、昭和33年ようやく完成を迎えます。
その後、中ノ島魚市場は昭和30年6月着工、昭和33年にほぼ完成して、年間25万tの水揚可能な市場施設となりました。また、第3魚舎(880u、太物、沿岸物専用)も完成し、8月23日から長崎県が市場開設者、長崎魚市株式会社が単数卸売人として新市場を運営していくことになりました。なお、昭和22年6月より馴れ親しんだ旧魚市場は、その後、長崎青果市場へと転用されました。
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4.魚の集散状況
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鮮魚の入出荷
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昭和10年当時、長崎魚市場に入荷される魚の種類は、中国東方海上物のタイ・レンコダイ・アマダイ・エソ・グチ・イカ、沿岸物のブリ・マグロ・カツオ・サバが主なものでした。年間の水揚量は8,000万斤、売上金額は750万円に達しました。大正2年(1913)の長崎県魚類共同販売所における売上高187万円から見ると、まさに雲泥の差というべき盛業ぶりです。
市場入荷品のうち2,800万斤、金額250万円は魚市場を通過するもので、これは漁業者が直接、県外消費地へ貸車送りするものでした。残りの5,200万斤、金額500万円が魚市場に卸され問屋の手によって売買されました。更にこの内の8割(400万円)は仲買人を経て県外消費地へ搬送され、2割(100万円)が小売人によって長崎市内外の消費者に供されていました。
県外への輸送魚は他港の水揚物との競合が激しく、特に東京ではタイ類でなければ採算が合わなかったので、高級魚がほぼ全量を占めていました。そのため長崎市は西日本随一の魚市場を抱えていたものの、市民の台所に出回る魚は水揚量の25%を占める下物(一般惣菜魚)が中心で、タイ・エビ等の上物は正月か結婚式ぐらいにしかお目にかかりませんでした。
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取引の改善
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流通の改善
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魚の売買
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長崎魚市場の商圏
県外出荷
魚の生命は鮮度です。氷蔵が普及していなかった明治20年(1887)頃の鮮魚問屋は、五島まで帆走、手漕ぎの運搬船(押し送り船)を操って走破し、直接現地で買付けたマグロ・アマダイ等の鮮魚を、それこそ一睡もせずに大阪市場へと運んでいたといいます。その頃から長崎と大阪とは魚によって結ばれていました。
長崎魚市場の商圏がどの範囲であったかははっきりしませんが、大正2年(1913)5月31日の東洋日の出新聞によると、「トロール物鮮魚ハスベテ鉄道便ニ頼リタルガ・・・九州各地ノミニテモ船便ニ頼ランコトヲ希望シ・・・」と、熊本の百貫港に船送りしたとあります。明治45年(1912)2月の冷蔵貨車の登場により、商圏は九州北西部、関西から関東市場まで拡大されていきました。
地元売り
鮮魚介類の販売は、代々の店を構えた小売店や、地魚を売り歩く「ふれ売り」と呼ばれる魚行商人の手によって行われていました。これとは別に明治37年(1904)には今下町(現在の築町)、五島町、本紺屋町、築町、梅ヶ崎町、広馬場町に「魚菜市場」なるものが開場されていて、魚介・野菜類を販売していました。大正9年(1920)長崎公設市場条例が制定されると共に、公営市場が各地に設置されて市民の便宜を図っていきました。昭和6年の条例は、公設小売市場条例と卸売市場条例に改定整備されましたが、この年の公設市場(小売市場)は、中央市場、今下町、館内町、本石灰町、銭座町、大浦町、八幡町、水の浦町。卸売市場は、築町、浜口町分場の11市場を数え、いずれも大いに繁盛したといわれています。
長崎における魚類仲買組合の変遷
長崎市内で組織された魚類商の組合は、大正10年(1921)魚市場の純鮮魚仲買商が、取引きの改善を目的に「魚類仲買組合」を設立したのが最初のようであります。その後の改編は、
大正11年(1922) 長崎築町魚類商組合・大黒町魚菜組合
大正14年(1925) 長崎蒲鉾商組合・長崎魚類小売商組合
昭和3年(1928) 鮮魚小売同業組合
などがありますが、昭和17年以降の戦時統制令によって強制的に統合されていきました。
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5.明治期以後の長崎貿易
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開国以後の長崎貿易
海産物の取引是正
江戸時代以降、対中国貿易の花形であった俵物三品、諸色の海産物は、明治時代に入っても依然好調な輸出を続け、一時は長崎港輸出品の主力となるほどの勢いでした。しかし,検品体制の不備から粗悪品の横行、買いたたき、中国貿易商との軋轢など、信用にかかわる事態が生じたために,長崎県水産組合連合会より業務を引き継いだ長崎県水産会は、取引の正常化と品質向上をめざして、昭和2年から輸出水産物の検品事業にしました着手しました。
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イワシの缶詰
長崎港の輸出品中、缶産物は石炭に次ぐ需要品で、明治後期には総輸出額の35%前後を占めていましたが、神戸港、門司港の集散力が増大するにつれて、長崎の輸出は減速の道をたどりました。対外貿易が拡大するにつれて、長崎県では新しい水産加工品として缶詰が登場しました。明治2年(1869)に長崎在住の松田雅典によって日本で初めて缶詰が製造されますが、事業として軌道に乗るのは、明治29年(1896)に(合)松田缶詰製造所が諏訪公園内に設立されてからで、主としてイワシ油漬缶詰が製造されていました。缶詰類の輸出は、大正元年(1912)の6万円から、昭和5年には33万円と伸長して、輸出食品類の花形となります。大正3年(1914)、大浦町の沢山商会はイワシのトマトソース漬缶詰1,300個を製造、見本として海外市場に送って好評を博したので、大正5年には英国にむけて輸出するなど次第に産業としての地位を固めていきました。イワシのトマト漬缶詰を生産する工場は、西彼杵郡土井ノ首村の内外食品(株)が大正13年(1924)から長崎県下で初めて稼動し、企業採算が取れるようになった昭和6年頃から各地に工場が建設され始めました。特に川南工業所が昭和7年に平戸に進出し、林兼商店が昭和8年に、相の浦、10年には土井ノ首村で操業を開始したことがイワシ缶詰生産量を増大させる原動力となりました。昭和10年初頭から生産額を驚異的に伸張させるが、昭和11年には「トマト缶詰製造ダケデ優ニ520万円」を産するまでに成長しました。この頃、長崎魚市場はイワシの場内取引を開始したため、生イワシの入荷が増大し、急速に膨張してきた缶詰原料需要に対応していく格好となりました。
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戦前のイワシ缶詰輸出
海産物輸出の衰退を補う形で昭和9年頃からイワシ缶詰の輸出が急増してきました。当時、イワシ缶詰の80%は長崎県下で製造されていましたが、輸出は主として神戸港、門司港から行われて、長崎港の輸出量は微々たるものでした。昭和11年、長崎県輸出缶詰協会の申し合わせにより、本県産のイワシの缶詰70万箱が長崎港から積出されることとなりました。また、林兼商店、川南工業所の朝鮮工場生産分30万箱も同様な取扱に改められたため、最盛時の輸出量は年間100万箱にも達して、長崎県産のイワシ缶詰は水産加工品の代表的産物として成長していきました。長崎港の通関統計によるとイワシ缶詰が機械類・部品類の輸出を上回り、昭和11年は173万円、12年には225万円と最高額を記録します。この仕向地は主に中国・香港・シンガポール島でした。長崎市とその周辺地区に7工場(県内では8社10工場)を数え、国内イワシ缶詰製造額の60%を占めていた缶詰産業も、戦争の激化によって輸出先を失って、昭和13年には4万円と激減し、以後回復することなく終戦を迎えました。
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缶詰製造業ー企業の独立と新規参入
戦争の激化によって中断していた長崎県の缶詰製造が復活するのは、昭和22年12月でした。原料のイワシが全国的に不漁のなか、本県のみがイワシの豊漁に恵まれて、原料入手が容易であったからでしょう。戦後は、缶詰業界に新しい企業も続々と誕生しました。昭和22年には日本食品製造所、23年4月には大興食品(株)(のち長崎漁業と改称)が設立され戸町金鍔谷で製造を開始しました。昭和24年5月、長崎合同缶詰(株)は解散しますが、戦時中統合されていた各社は、それぞれ独立していくことになりました。11月には福岡の興産(株)が長崎市梁瀬町に進出し製造を開始しました。
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戦後のイワシ缶詰輸出
昭和23年度には25万函の注文が入り,各社で割当生産が行なわれました。
長崎合同缶詰・・・10万函
日本食品工業・・・5万函
佐世保合同缶詰・・・5万函
深堀食品工業・・・5万函
このようにして製造される缶詰類の3分の1は輸出用でした。製造内訳においては、イワシ缶詰が水産缶詰製造高の80%を占めています。その要因は、次のように考えられます。
1.豊漁続きのイワシのみ原料を求めても仕事になったため、イワシ缶詰の製造 技術が発達してコスト減につながった。
2.戦後の輸出振興策によってトマトサージンが輸出製品の花形となり、海外で の需要も旺盛であった。
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イワシ缶詰の減退
こうしたイワシ缶詰の景気も昭和29年頃までで、その後は国内・国外に競争者が増加し、イワシに代わるサンマ缶詰の台頭などによって、イワシ缶詰は次第に衰退し始めました。特に打撃を受けたのが、昭和28年以降におとずれたイワシの大不漁期でした。さしもの隆盛を誇ったイワシ缶詰製造は、ここに来て他品種の製造に転換せざるを得なくなり(サバ・アジ、ミカン・ビワ等)、長崎の輸出産業の主力であったイワシ缶詰は、後退を余儀なくされました。
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自由販売期の到来
昭和25年は缶詰業界にとって戦後再生の節目ともいえる年となりました。1月1日に缶・びん詰にかけられていた2割の物品税が廃止されたことです。4月には缶・びん等の統制価格撤廃、5・6月には空缶配給統制規則・空缶統制価格も廃止となりました。これにより缶詰の販売では、一足早く昭和24年7月に自由販売となっています。この年、水産庁が何氷洋鯨肉の缶詰製造を提唱し、大洋漁業(株)と日本水産(株)で20万ケースの鯨大和煮がはじめて製造されました。
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