長崎魚市場前史
明治(1868)〜大正(1912)〜昭和初期(1936)

  1. 魚市場(集散場)の成立
  2. 長崎魚市場の開設
  3. 長崎魚市場施設の整備
  4. 魚の集散状況
  5. 明治期以後の長崎貿易

1.魚市場(集散場)の成立
 
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  • 魚市場の発生

    • 集散場の始まり
       原始時代の食生活は、貝塚に見られるように水産物を常用していましたが、採集量は自給の域を出ませんでした。縄文末期(約2,300年前)には稲作が伝わり、やがて米が大きなウェイトを占めてきますが、長い間の食生活は、上層階級を中心に米主食に魚副食の基盤が生まれます。
       奈良・平安時代(715〜939)に入ると、人口増につれて水産物の需要も相対的に高まり、漁人(りょうし)は魚を市に出して魚売人に卸したり、米と交換するなどの商業行為が発生します。京都には10世紀頃、市女(いちめ)と呼ばれる魚売り専門の女商人が既に現れていました。

    • 問屋制度の始まり
       都市に魚問屋が生まれ、これが集合して集散場(魚市場)が形成されるのは、17世紀から18世紀にかけてのことです。漁人、魚売人が集まって売買が頻繁になるにつれて、自然発生的に仲立ちをするものが現れ、次第に「市」の機能が芽生えます。やがて、この中から信用あるものが台頭して、大量の商品売買を仲介する卸売商(問屋)が生まれてきます。
       その背景は、幕府、藩への納入・用達に源を発しますが、鮮度保持という特別の技術と扱い方を要するために官の保護の下、株仲間を設けて世襲的に受け継がれてきました。
       ここでも新規参入禁止等の特権に守られ、藩屋敷や大商家への納入が約束された魚問屋は、これを基に急激に発展していきます。

    • 卸売市場の成立
       大正7年(1918)8月に発生した※1富山米騒動が引き金となって設けられた公設米小売市場は、大正8〜9年頃各地で著しく増加しました。これに対応する仕入機関として中央卸売市場設置の声が政府、関係者の間に高まってきます。この動きを促進したのが、東京市内のコレラ蔓延によって、日本橋魚市場が1ヶ月の閉場に追い込まれ鮮魚流通に大混乱を巻き起こした事件と、大正12年(1923)9月の関東大震災です。

      ※1【富山米騒動】
      米価暴騰のため富山県に米騒動が発生。以後、全国各地に波及。白米小売価格、1升50銭を突破。

    • 中央卸売市場の発足
       中央卸売市場法案は大正13年(1924)3月に交付され、指定6都市も施行されます。これまでの都市魚市場は青果と無関係に、生魚、塩干魚専門市場として発生してきましたが、市場法では青果とともに生鮮食料品として、同一市場に包含されることとなりました。
       その後、新市場に入場するために魚問屋が合併して卸売会社を設けたり、仲買人の選定、営業権保証、卸売人の単複論争等が各市場で繰り広げられて、入場完了までに8年の歳月を要しましたが、東京では府の要請で業種毎に1社の卸売会社が実現しました。

    • 地方卸売市場の発足
       生産地では府県令によって、漁業組合あるいは会社組織で地方卸売市場が運営されることとなり、鮮魚は、漁業者→魚市場→仲買人→消費地卸売人→仲買人→小売商を経て流通する仕組みとなりました。
       その結果、明治時代から仕込問屋・船宿として栄えてきた商業資本は、出資によって市場経営に参加するか、あるいは仲買人に専業化するかの道をたどることになります。

  • 長崎の魚類集散場、金屋町に始まる

    • 長崎の魚類集散場は、寛永年間(1624〜43)金屋町に開設されたと伝えられています。寛文3年(1663)の全町を焼き尽くす大火によって、文書記録の大半が焼失したために、当時の実態は知る由もありませんが、長崎の人口増加と水産物の消費は並行しながら進んでいったはずです。元亀元年(1570)の長崎開港・町建以降、貿易が盛んになるにつれて、町の人口も急激に増加していきます。
       町が発展すると消費も活発となり、当然のことながら需給調節の役割を果たす市場の発生を促すようになります。

    • 消費の増大と変化
       そうなると湾内の生産量では需給を賄いきれなくなり、集荷圏は近隣漁村にまで拡大していき、深江浦は生産主体の漁村から消費集散地へと転換していきます。この時代の長崎に水揚げされた魚介類の大部分は地元消費であったと思われますが、※2鎖国時代を迎え唯一の開港地となった長崎は、貿易の需要に応じる必要から水産物加工という新しい産業が起こり、天和3年(1683)には唐船によって俵物が初めて輸出されました。
       この頃には、既に貿易を手がける問屋組織が確立されて、加工品の集荷・輸出・販売にあたっていたことが伺えます。

      ※2【鎖国】
      国が外国との通商・交易を禁止あるいは極端に制限すること。17世紀から19世紀中頃まで、東アジア諸国は鎖国対策をとった。江戸幕府は、キリスト教禁止を名目として、中国オランダ以外の外国人の渡米・貿易と、日本人の海外渡航を禁じた。

    • 集散場の変遷
       長崎の魚類集散場は金屋町以後、転々と場所を変えています。理由は明らかではありませんが、急激な人口増に高台での荷捌きが追いつかなくなったことや、寛永9年(1632)中島川の護岸工事が完成して、海陸物流の接点が整備されたため、慶安以降(1648〜)は漁船の接岸可能な場所が選ばれたのではないでしょうか。

  • 材木町集散場時代

    • 川筋の賑わい
      今の中島川では船の渡航は不可能ですが、明治の初期頃までにはかなりの船が、伊良林(いらばやし)町付近まで漕ぎ上がっていたといいます。二股川が銭屋川と合する桃渓(ももだに)橋のたもとには、唐船の海上安全を祈って、約130年前に奉納された石造の常夜灯2基が建っており、中島川船連の賑わいを偲ばせてくれます。
       賑橋(にぎわいばし)のたもとには漁業神を祀った「恵比須神社」があります。傍らの川辺には、昔の魚類集散場がわずかに名残を留めており関係者の参拝が後を絶たなかったが、今は少ないといいます。編笠橋(あみかさばし)から川下の中島川両岸には、遊廓や置屋が軒を連ね昼夜の別なく三味線、太鼓の音が軒端を伝い嬌声・紅灯が川面を染めていました。
       羽振りの良かった魚河岸に支えられて、大川周辺は明治末期まで続いていきます。集散場のあった金屋町の魚揚場は、慶安年間(1648〜52)に分かれて魚町に移転します。今の魚市橋はその名残です。
       当時の問屋、漁業者の関係は、仕込金前貸に縛られた隷属的な関係にあったが、漁業者の取込みや荷引きをめぐって問屋間の紛争が絶え間なく続いていました。
       天保元年(1830)魚類集散場は材木町河川に移転したが、その勢力争いは魚行商人まで巻き込み、得意客の争奪戦さえ引き起こす事態となりました。
       『長崎県水産誌』によると「明治6年中、関係問屋に取引上の紛議起りて、一部の問屋業者は対岸万屋町(よろずやまち)に去りて此に新市場を開けり、再来両々対立して業務を行いしが・・・」と中島川をはさんだ2ヶ所で「魚市場業務が行われ」と憂いを述べていますが、この反目は30余年も続いていくことになります。
       ちなみに万屋町市場の繁栄を象徴するものに、諏訪神社の秋の大祭お宮日(くんち)の「鯨曳き」と長崎ドンスで織り上げた魚づくしの豪華な「傘鉾」が現存します。また魚町の傘鉾も打瀬網・魚カゴ・タイ・エビ等を飾ってあり、魚の取引きがあったことを示しています。

  • 長崎魚類協同販売所の設立

    •  明治36年(1903)には材木町市場に所属する13件の問屋が、長崎魚類仲買(株)を設立してそれまで問屋が行っていた漁業者への仕込金前貸しの禁止、代金不払者の取締まりを規定したが、これに反発した問屋3件との間に、猛烈な集荷競争が行われ、双方とも大きな赤字を出したといわれます。
       明治37年(1904)に発足した県下西彼杵長崎水産組合は、かねてから分かりにくかった魚の「セリ」を、出荷者にも分かり易い方法に改めることと、価格の公示を申し入れていましたが、問屋側から拒否されたため、明治40年(1907)組合員の漁獲物を集めて紺屋(こうや)町に自営の共同販売所を開設しました。
       しかし、この試みは材木町、万屋町市場の対立を更に深めることとなります。新市場は立地条件が悪かったこともあり、漁業者は依然として問屋の仕込支配に縛られて、止む無く旧市場(材木町・万屋町市場)に出荷を続けました。このため出荷者の去就を巡る争いが加わり、三つ巴の確執は年余に及び、ついに共同販売所は経営不振に陥って、総額3万円余りの負債を抱えることとなりました。
       この紛争は、明治42年(1909)になって、長崎県水産組合連合会(明治36年設立)が仲に入り、新たに長崎魚類共同販売所を材木町河岸に設立して、県下西彼杵長崎水産組合の共同販売所業務と負債を引継ぎ、旧市場を解散して紛糾を決着させました。
       その頃は、トロール漁業の台頭が引き金となって、荷捌き、輸送、市場移転、仕込支配等、全ての面で構造改革を迫られていた時期で、新旧思想の衝突と反発が根底に根強く、加えて主導権争いが絡んでの複雑な展開となっていたのではないかと推察されます。

  • 長崎

    • 長崎県水産会の発足
       
      長崎魚市場運営の母体である「長崎県水産組合連合会」は、系統的水産団体である郡市水産組合を構造分子として組織されていましたが、大正10年(1921)4月に公布された「水産会法」に基づき、水産業の改良増進を目的に、各水産組合は順次その組織を水産会に衣替えしていきます。
       大正13年(1924)4月には長崎市水産会をはじめ、2市7郡で水産会の設立が完了し、長崎県水産会設立への動きが高まってきたため、各水産会同意の下に同年5月16日に創立総会を開催、会則その他の議案を可決の上、長崎県水産会が正式に発足します。
       長崎県の水産会発足により、長崎県水産組合が経営していた魚類共同販売事業、並びに輸出水産物検査事業の移管については、県との折衝の結果、ようやく解決をみたので、昭和2年6月、長崎県水産会名で魚市場開設許可の申請を行い、同年6月5日付けの許可指令に基づいて、6月30日臨時総会を開催。2事業の移管と経緯の報告、並びに名称を「長崎県水産会輸出水産物検査所」と改めることを付議可決して、昭和2年7月1日より長崎県水産会が継承運営することとなりました。

    • 社屋の焼失と復旧
       昭和4年11月、創設以来、長崎県庁水産課内に置いていた長崎県水産会の事務所を尾上町の水産物卸売市場内に移転して、人心の一新と業務の円滑化を図ることとなります。
       ところが移転2ヵ月後の昭和5年1月、事務所裏からの出火によって本会事務所、水産物卸売市場魚揚場、仲買業者共同荷捌所、及び委託売買業者共同事務所の一部が焼失したため、急拠臨時株主総会を開催し、予算1万4,900円で復旧工事を行うこととなりました。
       魚市場の工事は直ちに着工できましたが、事務所その他は、敷地が国の鉄道用地であったために工事許可が非常に遅れ、昭和5年9月末にようやく完成をみて、同年10月6日、盛大な落成式が執り行われました。
       また昭和13年1月12日の未明には、集散場付近の倉庫からの出火によって類焼の難にあいます。人身の事故はなかったものの、集散場、魚市場、合わせての損害額は8万2,800円でした。


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2.長崎魚市場の開設
 
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  • 集散場、中島川河畔からの移転

    •  人口増と悪疫予防のため、明治24年(1891)本河内、同37年(1904)には西山高部の両水源地が完成し、中島川の流量は著しく減少しました。そのためこの川を遡航(そこう)していた漁船は、満潮時のわずかな時間しか航行できず、材木町河岸の長崎魚類共同販売所では荷の積み降ろしができなくなっていました。
       
      明治37年(1904)長崎港湾奥部の浚渫(しゅんせつ)埋立が完成すると、中島川を遡航できない大型漁船は、自然と尾上町海岸を利用するようになります。
       それでも、尾上町で水揚げされた魚類は全て材木町市場に運ばれ、問屋を通過させた後、県外出荷物は再び尾上町の長崎駅まで逆送して貸車積しなければなりませんでした。
       一方では、※3倉場富三郎などが設立した長崎漁業汽船(株)によって英国から輸入されたトロール漁船が、明治41年(1908)操業に成功して、驚異的な漁獲物をもたらすようになります。
       
      このように、沿岸漁業に依存していた時代には、中島川河畔の小規模市場であっても充分対応できたのでしょうが、近代漁業がもたらす漁獲物の増大は、これまでの地元消費量をはるかに凌駕(りょうが)する状況となって、深刻な魚価の低迷を招き、卸問屋は県外出荷を積極的に取り組まざるを得なくなりました。
       年々増加するトロール漁船の入港によって
      魚市場の実態は尾上町に移ったも同然であって、材木町市場往復のロスは流通、魚価にも悪影響を及ぼしていたため、入出荷に便利な尾上町への移転整備が市場発展上の急務として浮上してきます。
       しかし近代漁業発展の波に乗って、増大する漁獲物に対処せねばならぬ長崎漁港の設備は、まだ充分とは言い難かったのです。


      ※3【倉場富三郎】
      明治3年(1870)12月8日、英国人トーマス・グラバーの一人息子として生まれる。実業家の父の死後、南山手の居宅に住み、ホーム・リンガー商会を営み、長崎漁漁汽船(株)の専務として、日本最初のトロール船4隻を英国から購入。また遠泳捕鯨を初めて操業するなど、水産県長崎の近代化に貢献した。

  • 魚市場の一本化

    •  長崎県水産組合連合会は明治42年9月、材木町・万屋町・紺屋町の3市場を併合して新たに長崎魚類共同販売所を開設します。
       販売所開設に際して、旧3市場の問屋19店は販売取扱人という魚市場従業員の資格で個別に「セリ売り」をさせ、これに対しては報酬を支払うようにしました。
       また、長崎魚類仲買(株)を併設して魚市場金融部に位置付け、従来問屋が握っていた漁業仕込金の融資を代行して、問屋専属から漁業者を切離す道を歩み始めます。
       長崎魚類共同販売所と問屋は、雇従関係のまま尾上町に移転して営業を続けていましたが、大正5年(1916)長崎税務署が販売取扱人に対して営業税を課税したため、長崎県水産組合連合会と販売人の間に争いが起こり2年余り紛糾しましたが、融資の仲介によって和解に漕ぎつけ、取扱人は問屋業に戻る者、あるいは魚市場の従業員となってこの問題は解決しました。

  • 長崎市営魚類集散場の開設

    •  水揚げと輸送を直結する新漁港をと願う関係者の声を受けて、長崎市議会は、明治45年(1912)7月6日、ようやく尾上町の市有地に長崎市営魚類集散場が建設される運びとなりました。
       その後、長崎県水産組合連合会より魚市場建設の目的で提出された、長崎停車場海岸寄り(台場町)官有里道(かんゆうりどう)及波止場敷地175坪の使用願については、大正2年(1913)7月18日の市議会で特に急を要するのでと即決を決め、全会一致で賃貸を承認、材木町、万屋町も移転に向けて動き出すこととなりました。
       大正2年8月6日に併用された、長崎市営魚類集散場には2〜3の問屋が率先して移転し、トロール物の荷役、直送が開始されます。これが新生長崎魚市場の幕開けとなるのです。
       これと時を同じくして、長崎県水産組合連合会の魚市場も完成を迎えて、魚市場移転の噂が市民の間に拡がると、、賛否両論が起こり、そのため一部の反対者は移転を躊躇し、材木町市場に留まって営業の存続を図りましたが、関係者の努力によって移転が完了したのは、大正3年(1914)3月でした。
       これによって、天保元年(1830)の中島川河畔時代から80年間、長崎町民の台所を預かってきた材木町市場は、惜しまれながらその姿を消すこととなりました。

  • 長崎魚市場の施設概要

    •  華々しく開業した長崎の魚市場は、広大な市有地の中に長崎県水産組合連合会が建設した事務所、第一魚揚場及び付属建物3棟と、長崎市が建設したトロール物専用の第2魚揚場の計6棟(昭和10年にイワシ類専用の第3魚揚場が増設される)が東西に配置され、前面は長崎港に接するという材木町市場時代とは比較にならない理想的な魚市場でありました。
       長崎魚市場は、第2魚揚場を長崎市から借り受けて長崎県水産組合連合会が運営に当たっていましたが、なぜか関係者は第1魚揚場を”魚市場”、第2魚揚場を”集散場”と区別して呼んでいたといいます。

  • 長崎魚市場の設備内容

    • @事務所・・・2階建1棟
      A第1魚揚場・・・平屋建1棟
       魚揚大斜堤・・・延140余坪
      B第2魚揚場・・・平屋建1棟
       魚揚大斜堤・・・延160余坪
      C問屋詰所・・・平屋建1棟
      D仲買詰所・・・2階建1棟
      E魚類仲買(株)営業所・・・2階建1棟

  • イワシ専門市場の開設

    •  昭和初期、イワシは長崎県水産会水産物卸売市場で執り行われていませんでした。その理由は、近海物が多かったことと、氷蔵が普及していなかったために、弱るのが早いイワシは市民の食卓には不向きだったのでしょう。
       昭和8年ごろになると、イワシが大量に獲れ始め、鮮度保持に氷を使い始めたために、新鮮な上に安いイワシがやっと食膳に供されるようになります。
       当時イワシは、元船町の波止場で取引きされていました。自称仲買人が無許可で流通させていたので、扱高の増加に従って、金銭面や取扱上のトラブルが次々と発生するようになります。ここでは十分な洗浄施設も整っていない露天での商売だったので、水物(水分を多く含んで鮮度が落ちた食品)ではなかったかと思われます。
       こうなると魚市場としての立場上、場外での市場活動は衛生的にも統制上許されないことでした。
       そこで長崎県水産会は、魚市場関係者の要望に沿って、魚市場内にイワシ類専門売場の必要性から魚揚場建設を長崎県に要請し、昭和10年に完成したのが、第3魚揚場の174坪です。
       これによってイワシ類は魚市場内での扱いとなり、同年8月28日から取引きが開始されました。これ以降、長崎魚市場施設は昭和20年8月9日の原子爆弾投下によって魚市場が壊滅するまで変わることはありませんでした。

  • 長崎魚市場の運営

    • 取引機構
       尾上町魚市場での魚類仲買人となるには、長崎県市場取締規則第7条により、長崎県水産会の推薦により知事の許可が必要でした。
       『長崎県水産誌』によると魚市場の取引機関は、
        1.委託売買業者  19名(魚問屋)
        2.買受人・仲買人 30余名(主として県外移出)
        3.小売人      500名(主として店舗及び行商により市内外消費者に売る)
      と定められていますが、関係者を含めると日々2〜3,000人が出入りしていたのではなかったかと推察されます。


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3.長崎魚市場施設の整備
 
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  • 整備された漁港施設

    • 長崎湾奥部の整備
       
      第1期港湾改良工事《明治10年(1877)着工、明治26年(1893)完工》に取り残された長崎港の湾奥部は、干潮時に土砂が露出して船舶の航行、停泊に支障をきたしていました。
       このため、港湾整備の要望が日増しに強くなり、長崎市は議会の承認を受けて明治30年(1897)10月、湾内の浚渫と沿岸陸地を造成する第2期港湾改良工事に着手し、明治37年(1904)約27万坪の浚渫と、大波止、大黒、中ノ島、銭座など18万坪余の埋立を完了しました。
       これによって、現在のJR長さ機駅以北に広大な新市街地が形成され、明治38年(1905)には鉄道が長崎駅まで延長されて長崎〜門司間が開通します。

    • 魚市場の水揚場
       竣工した沖見川河口の埋立地前面は、干潮時水深マイナス2mを保持しましたが、延長230mの水揚護岸は、所々に階段を配した傾斜岸壁であったためにトロール漁船は接岸できず、沖がかりのまま漁獲物を※4団平船に積替えて揚陸する不便さを抱えていました。大正3年(1914)長崎県は長崎県水産組合連合会と協議の上、2ヵ年の暫定措置として団平船4隻を並べた係船場を設置し、荷役作業の改善を図っていきます。これにかかった工費は4,900円でした。

      ※4【団平船】
      河川・運河・港内などで雑荷物・魚類などを運ぶ堅牢なはしけ。

    • 魚市場水揚場の拡張
       
      長崎県は大正3年(1914)に作成した『長崎県産業施設調査書』の中で、「漁港トシテノ中ノ島埋築地ニ於ケル設備及其ノ実行方法」として4案を示しています。
       実現をみたのは、長崎駅地先海岸にトロール漁船荷役対策として、
        1.魚市場前面海面を干潮時15尺(約5m)浚渫する
        2.石垣上部先端より海上に向かって9間(約16m)延長、95間(約170m)を
         網干場とする
        3.工費7万3,100円で施設整備を行う
      などの案で、その背後地に尾上町長崎魚市場社屋が立地したのです。
       漁港施設が整備され魚市場が活性化するにつれて、トロール漁船は勿論、沿岸漁船も相次いで入港し、多いときには大小300隻ほどの漁船が謂集(いしゅう)したため、増加する水揚場の処理が度々滞る事態も生じました。
       また、鉄道引込線が水揚場と平行に敷設されていましたが、魚の積込みが終われば1車ごとに回転台を使って方向転換を図らなければならないなどの不便さもあって、水揚能力は1日8万貫といわれながら、実際の出荷能力は1日平均20車、5万貫という非能率さでした。

  • 漁港施設の改良

    • 大長崎振興会
       第2期港湾改良工事で先送りされた元船町〜出島間の沿岸修築工事及び出島臨港船は、第3期工事によって昭和5年3月、ようやく実現にこぎつけます。
       この頃、九州の鉄道輸送体系に大変革をもたらす「関門海底トンネル工事」(昭和19年開通)が開始されます。
       このような情勢の中で、関門海底トンネル開通後の長崎市の産業と貿易振興に備えるために「大長崎振興会」が昭和14年に結成され、調査検討の結果、長崎港改修計画案なるものが作成されました。

    • 魚市場の改修
       昭和19年3月、長崎市議会で「魚類集散場改築費用起債の件」が可決され、魚類水揚場の護岸改築と魚類集散場の上屋(うわや)及び事務所の改築工事が行われることとなりました。これまで集散場の施設についてはその不備が指摘されていましたが、ようやく改善されることとなります。

    • 幻の港湾改修工事
       この計画の概要は、出島〜尾上町間の岸壁改修、突堤築造、前面海面の埋立、銅座川の変流工事等ですが、このうち集散場施設に関しては、昭和5年10月に完成した延長230m、水深1.8mの水揚場水深が年々浅くなり、大小300隻の漁船が停泊、荷役するには狭小となって、増大する水揚げに対応できなくなりました。
       そこで、
        1.尾上町地先に、水深3.8mの岸壁190mを、現水揚場場上屋端より約7m
         前面に突出して築造し、500t級小型漁船3隻の荷役に利用する。
        2.尾上町岸壁には上屋2棟と固定式10t機重機1台を設置する。
      ていうものでした。
       この計画は第4期港湾改良工事となるはずでしたが、太平洋戦争に突入したため実現には至りませんでした。

    • 魚市場施設の復旧
       昭和20年8月、長崎市に投下された原子爆弾によって壊滅した長崎魚市場は、9月には早くも業務を再開します。
       青空市場同然の状態で再開された長崎魚市組合は、厳しい食糧難にあえぐ消費者と漁業生産者の要請に応えて、21年7月魚市場の復旧工事に着手し、尾上町の旧位置に荷揚場、事務所等、延1,160坪の魚市場施設と浮桟橋、鉄道引込線、荷役用コンベア2基等の漁港施設が復旧され、元船町海岸通りに水産倉庫7棟の完成をみたのは22年6月でした。

       長崎港は本来長崎市の管理下にありましたが、昭和23年6月、長崎市はこれを長崎県に移管し、昭和25年に制定された港湾法、漁港法によって長崎港の漁港区域が定まり、漁港管理者は長崎県と定められました。
       長崎漁港は、このあと昭和35年に特定第3種漁港に指定され、48年には長崎市三重地区も特定第3種漁港に指定され、今日に及んでいます。

       明治期から昭和初期にかけての長崎港整備事業は、5次にわたって再開されました。
        第1次   明治10年〜26年
        第2次   明治33年〜37年
        第3次   大正9年〜昭和2年
        第4次   昭和3年
        第5次   昭和12年
       戦後においては、昭和21年9月の公共事業処理要請に基づいて、22年度から漁港施設の整備が公共事業として推進されることとなりました。
       戦後の長崎漁港の本格的な整備は、中ノ突堤の築造から始まります。鉄道と直結し、干潮時も接岸容易な荷役岸壁の築造は、漁業者関係者の願いでした。
       長崎魚市場の水揚量は8万tを越え、そのほとんど(70〜80%)が遠洋物で占められていて、このうち鉄道によって遠隔地に運ばれるものが地元消費の3〜4倍に達していました。これが長崎漁港水揚げの実体であり、施設拡充を求める第一の根拠でした。

    • 中ノ島突堤工事
       漁港施設の整備拡充については、魚市場の日常業務を妨げぬことを前提に協議が重ねられた結果、昭和23年度から農林省の補助を受けた長崎県が工事主管者となって、尾上町岸壁の南西海面に突堤(中ノ島)を築造することが決定されました。
       築造される中ノ島突堤は、
        長さ   200m
        巾    100m
        水深マイナス3m岸壁   300m
        水深マイナス5m岸壁   200m
      で、トロール船ほか漁船、運搬船なら全て係船が可能であり、突堤の両側と先端部に魚舎、中央部に道路、鉄道引込線を配置するものでした。
       当初の完成時期より若干の遅延はありましたが(工事中の昭和26年11月、突堤東側約100mが突如崩壊するという事故が発生した)、約11年の歳月を費やして、昭和33年ようやく完成を迎えます。
       その後、中ノ島魚市場は昭和30年6月着工、昭和33年にほぼ完成して、年間25万tの水揚可能な市場施設となりました。また、第3魚舎(880u、太物、沿岸物専用)も完成し、8月23日から長崎県が市場開設者、長崎魚市株式会社が単数卸売人として新市場を運営していくことになりました。なお、昭和22年6月より馴れ親しんだ旧魚市場は、その後、長崎青果市場へと転用されました。


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4.魚の集散状況
 
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  • 鮮魚の入出荷

    •  昭和10年当時、長崎魚市場に入荷される魚の種類は、中国東方海上物のタイ・レンコダイ・アマダイ・エソ・グチ・イカ、沿岸物のブリ・マグロ・カツオ・サバが主なものでした。年間の水揚量は8,000万斤、売上金額は750万円に達しました。大正2年(1913)の長崎県魚類共同販売所における売上高187万円から見ると、まさに雲泥の差というべき盛業ぶりです。
       市場入荷品のうち2,800万斤、金額250万円は魚市場を通過するもので、これは漁業者が直接、県外消費地へ貸車送りするものでした。残りの5,200万斤、金額500万円が魚市場に卸され問屋の手によって売買されました。更にこの内の8割(400万円)は仲買人を経て県外消費地へ搬送され、2割(100万円)が小売人によって長崎市内外の消費者に供されていました。
       県外への輸送魚は他港の水揚物との競合が激しく、特に東京ではタイ類でなければ採算が合わなかったので、高級魚がほぼ全量を占めていました。そのため長崎市は西日本随一の魚市場を抱えていたものの、市民の台所に出回る魚は水揚量の25%を占める下物(一般惣菜魚)が中心で、タイ・エビ等の上物は正月か結婚式ぐらいにしかお目にかかりませんでした。

  • 取引の改善

    •  魚市場に入荷する漁獲物の発展には、冷凍・冷蔵・加工・流通機構・販路拡大等の側面的諸機能が満たされなければなりませんが、製氷事業は大正末期には、ほとんどの都市に行き渡り、冷凍事業も昭和初期から技術開発が進み、水産加工では缶詰、練製品を主体に品質の多様化と改善が行われ、流通面においては鉄道網の発達と冷蔵貨車の増強が計られていきます。
       大正12年(1923)には中央卸売市場法が公布されるなど、大正末期から昭和初期にかけて急速に魚類国内流通の革新が進行することとなりました。

  • 流通の改善

    •  市場法の規定によって旧来の個人問屋は消滅しましたが、魚類の流通過程は、漁業者→魚市場→仲買人→小売商と、消費者に届くまでには5つの機関を通らなければなりませんでした。このパイプをいかに太く短くするかが流通の課題でしたが、地方の水産会共同販売所、西日本地区、特に長崎の漁業者によって行われた「荷主直送」が、これに対応するものでした。
       全て問屋を経ねば売買を許さぬ問屋支配を脱却した「荷主直送」は、市場流通の流れを変え、後の以西底曳網漁業の発展を支える原動力となるなど、長崎の市場流通に大きな変動をもたらしました。
       トロール漁業者に続いて、以西底曳網業者も直送を踏襲します。流通経費の削減と荷傷み防止を念願する業者の思惑と一致した「直送」は、漁業経営を潤すこととなって企業誘致を促進し、ひいては長崎魚市場発展に大きく寄与することとなります。しかし、荷主直送といっても、産地魚市場は形だけでも通過せねばならず、わずかに産地仲買人の手数料を省く程度に過ぎませんでした。
       実質的には、その大部分は5段階の中間業者を経て消費者に渡るということと、産地出荷者と消費地卸売人との間の委託販売という点においては、旧来の方式と何ら変わることはありませんでした。
       長崎では、後に資力と消費地市場に出荷先をかかえた仲買人の中から「発送仲買人」が台頭して、流通段階は旧に復することとなります。

  • 魚の売買

    •  魚市場での魚の取引きは、旧幕府時代からいわゆる問屋仲間に牛耳(ぎゅうじ)られていました。
       仕込支配に縛られた漁業者は、売値について闇の中にいるのと同然で、その不明朗さを破るため、度々取引の改善を問屋側に申し入れましたが、常に拒否されてきました。
       長崎県水産組合連合会が長崎魚類共同販売所開設に踏み切ったのも、漁業者を問屋仲間の因習から解き放つためでした。
       それまでの相対取引は、これを機会に昭和8年「セリ売り」に改め、値段は※5符牒(ふちょう)の使用を禁止して、必ず円・銭単位を唱えるように改められます。
       京、長崎魚市場での魚類の取引きは、例外品を除いて、長崎魚市場業務規定第36条−卸売りについては「セリ」または「入札」の方法−にと定められ、長崎魚市場における卸売業者と仲卸買受人との間での取引は、全て「公開セリ」によるところになっています。
       「セリ」は魚市場開設者(長崎県)が任命したセリ人(長崎魚市鰍フ職員)の発声によって進行します。膨大な量の魚を短時間に処理しなければならないので、セリ人、仲買人ともに気合がこもり熱気と喧騒に包まれながら次々と競り落とされていきます。セリは気合だといわれるくらい、緊迫したやり取りです。
       買手の意欲をいかにかきたてるかは、その日の入荷量にもよりますが、仲買人の心理状態を見抜く力と気合にかかっているといわれる由縁です。
       「セリ」は昭和16年の戦時統制令によって一時姿を消しますが、昭和25年4月の統制撤廃によって復活することとなります。

      ※5【長崎で使われていた符牒】
      値決めのときは、1はソク、2はリャン、3はテン、4はワサ、5はゲン、6はガチャ、7はヨシ、8はタマ、9はクゲ、0はゼロ。この符牒は、中国の貿易商人が使っていたことから唐人符牒ともいわれ、その昔、材木町市場時代から使われていたといわれる。

  • 長崎魚市場の商圏

    • 県外出荷
       
      魚の生命は鮮度です。氷蔵が普及していなかった明治20年(1887)頃の鮮魚問屋は、五島まで帆走、手漕ぎの運搬船(押し送り船)を操って走破し、直接現地で買付けたマグロ・アマダイ等の鮮魚を、それこそ一睡もせずに大阪市場へと運んでいたといいます。その頃から長崎と大阪とは魚によって結ばれていました。
       長崎魚市場の商圏がどの範囲であったかははっきりしませんが、大正2年(1913)5月31日の東洋日の出新聞によると、「トロール物鮮魚ハスベテ鉄道便ニ頼リタルガ・・・九州各地ノミニテモ船便ニ頼ランコトヲ希望シ・・・」と、熊本の百貫港に船送りしたとあります。明治45年(1912)2月の冷蔵貨車の登場により、商圏は九州北西部、関西から関東市場まで拡大されていきました。

    • 地元売り
       
      鮮魚介類の販売は、代々の店を構えた小売店や、地魚を売り歩く「ふれ売り」と呼ばれる魚行商人の手によって行われていました。これとは別に明治37年(1904)には今下町(現在の築町)、五島町、本紺屋町、築町、梅ヶ崎町、広馬場町に「魚菜市場」なるものが開場されていて、魚介・野菜類を販売していました。大正9年(1920)長崎公設市場条例が制定されると共に、公営市場が各地に設置されて市民の便宜を図っていきました。昭和6年の条例は、公設小売市場条例と卸売市場条例に改定整備されましたが、この年の公設市場(小売市場)は、中央市場、今下町、館内町、本石灰町、銭座町、大浦町、八幡町、水の浦町。卸売市場は、築町、浜口町分場の11市場を数え、いずれも大いに繁盛したといわれています。

    • 長崎における魚類仲買組合の変遷
       長崎市内で組織された魚類商の組合は、大正10年(1921)魚市場の純鮮魚仲買商が、取引きの改善を目的に「魚類仲買組合」を設立したのが最初のようであります。その後の改編は、
        大正11年(1922)   長崎築町魚類商組合・大黒町魚菜組合
        大正14年(1925)   長崎蒲鉾商組合・長崎魚類小売商組合
        昭和3年(1928)    鮮魚小売同業組合
      などがありますが、昭和17年以降の戦時統制令によって強制的に統合されていきました。


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5.明治期以後の長崎貿易
 
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  • 開国以後の長崎貿易

    • 海産物の取引是正
       
      江戸時代以降、対中国貿易の花形であった俵物三品、諸色の海産物は、明治時代に入っても依然好調な輸出を続け、一時は長崎港輸出品の主力となるほどの勢いでした。しかし,検品体制の不備から粗悪品の横行、買いたたき、中国貿易商との軋轢など、信用にかかわる事態が生じたために,長崎県水産組合連合会より業務を引き継いだ長崎県水産会は、取引の正常化と品質向上をめざして、昭和2年から輸出水産物の検品事業にしました着手しました。

    • イワシの缶詰
       
      長崎港の輸出品中、缶産物は石炭に次ぐ需要品で、明治後期には総輸出額の35%前後を占めていましたが、神戸港、門司港の集散力が増大するにつれて、長崎の輸出は減速の道をたどりました。対外貿易が拡大するにつれて、長崎県では新しい水産加工品として缶詰が登場しました。明治2年(1869)に長崎在住の松田雅典によって日本で初めて缶詰が製造されますが、事業として軌道に乗るのは、明治29年(1896)に(合)松田缶詰製造所が諏訪公園内に設立されてからで、主としてイワシ油漬缶詰が製造されていました。缶詰類の輸出は、大正元年(1912)の6万円から、昭和5年には33万円と伸長して、輸出食品類の花形となります。大正3年(1914)、大浦町の沢山商会はイワシのトマトソース漬缶詰1,300個を製造、見本として海外市場に送って好評を博したので、大正5年には英国にむけて輸出するなど次第に産業としての地位を固めていきました。イワシのトマト漬缶詰を生産する工場は、西彼杵郡土井ノ首村の内外食品(株)が大正13年(1924)から長崎県下で初めて稼動し、企業採算が取れるようになった昭和6年頃から各地に工場が建設され始めました。特に川南工業所が昭和7年に平戸に進出し、林兼商店が昭和8年に、相の浦、10年には土井ノ首村で操業を開始したことがイワシ缶詰生産量を増大させる原動力となりました。昭和10年初頭から生産額を驚異的に伸張させるが、昭和11年には「トマト缶詰製造ダケデ優ニ520万円」を産するまでに成長しました。この頃、長崎魚市場はイワシの場内取引を開始したため、生イワシの入荷が増大し、急速に膨張してきた缶詰原料需要に対応していく格好となりました。

    • 戦前のイワシ缶詰輸出
       
      海産物輸出の衰退を補う形で昭和9年頃からイワシ缶詰の輸出が急増してきました。当時、イワシ缶詰の80%は長崎県下で製造されていましたが、輸出は主として神戸港、門司港から行われて、長崎港の輸出量は微々たるものでした。昭和11年、長崎県輸出缶詰協会の申し合わせにより、本県産のイワシの缶詰70万箱が長崎港から積出されることとなりました。また、林兼商店、川南工業所の朝鮮工場生産分30万箱も同様な取扱に改められたため、最盛時の輸出量は年間100万箱にも達して、長崎県産のイワシ缶詰は水産加工品の代表的産物として成長していきました。長崎港の通関統計によるとイワシ缶詰が機械類・部品類の輸出を上回り、昭和11年は173万円、12年には225万円と最高額を記録します。この仕向地は主に中国・香港・シンガポール島でした。長崎市とその周辺地区に7工場(県内では8社10工場)を数え、国内イワシ缶詰製造額の60%を占めていた缶詰産業も、戦争の激化によって輸出先を失って、昭和13年には4万円と激減し、以後回復することなく終戦を迎えました。

    • 缶詰製造業ー企業の独立と新規参入
       
      戦争の激化によって中断していた長崎県の缶詰製造が復活するのは、昭和22年12月でした。原料のイワシが全国的に不漁のなか、本県のみがイワシの豊漁に恵まれて、原料入手が容易であったからでしょう。戦後は、缶詰業界に新しい企業も続々と誕生しました。昭和22年には日本食品製造所、23年4月には大興食品(株)(のち長崎漁業と改称)が設立され戸町金鍔谷で製造を開始しました。昭和24年5月、長崎合同缶詰(株)は解散しますが、戦時中統合されていた各社は、それぞれ独立していくことになりました。11月には福岡の興産(株)が長崎市梁瀬町に進出し製造を開始しました。

    • 戦後のイワシ缶詰輸出
       
      昭和23年度には25万函の注文が入り,各社で割当生産が行なわれました。
        長崎合同缶詰・・・10万函
        日本食品工業・・・5万函
        佐世保合同缶詰・・・5万函
        深堀食品工業・・・5万函
       このようにして製造される缶詰類の3分の1は輸出用でした。製造内訳においては、イワシ缶詰が水産缶詰製造高の80%を占めています。その要因は、次のように考えられます。
        1.豊漁続きのイワシのみ原料を求めても仕事になったため、イワシ缶詰の製造   技術が発達してコスト減につながった。
        2.戦後の輸出振興策によってトマトサージンが輸出製品の花形となり、海外で   の需要も旺盛であった。

    • イワシ缶詰の減退
       
      こうしたイワシ缶詰の景気も昭和29年頃までで、その後は国内・国外に競争者が増加し、イワシに代わるサンマ缶詰の台頭などによって、イワシ缶詰は次第に衰退し始めました。特に打撃を受けたのが、昭和28年以降におとずれたイワシの大不漁期でした。さしもの隆盛を誇ったイワシ缶詰製造は、ここに来て他品種の製造に転換せざるを得なくなり(サバ・アジ、ミカン・ビワ等)、長崎の輸出産業の主力であったイワシ缶詰は、後退を余儀なくされました。

    • 自由販売期の到来
       昭和25年は缶詰業界にとって戦後再生の節目ともいえる年となりました。1月1日に缶・びん詰にかけられていた2割の物品税が廃止されたことです。4月には缶・びん等の統制価格撤廃、5・6月には空缶配給統制規則・空缶統制価格も廃止となりました。これにより缶詰の販売では、一足早く昭和24年7月に自由販売となっています。この年、水産庁が何氷洋鯨肉の缶詰製造を提唱し、大洋漁業(株)と日本水産(株)で20万ケースの鯨大和煮がはじめて製造されました。


 

Copyright:2003 長崎魚市株式会社
Nagasaki Uoichi co.Ltd

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