長崎県における漁業種別の変遷

長崎県の水産環境
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  • 長崎県の水産環境

    • 自然条件に恵まれ
       『魏志倭人伝』の昔から、五島列島で網を入れれば豊富な魚が獲れることが記されています(『青方文書』)。そのように豊富な漁場を持ちながら、魚が商品価値を持つまでは産業としては成立せず、さりとて魚だけで食生活も成り立たず、という僻地の境遇をかこってきました。ところが、近世になると、この地域にも漁村集落の成立が見られるようになり、海上交通の発展や船舶の発達により、本格的な漁業活動が始まりました。以後、300年以上にわたって漁業の伝統を築いてきました。その最大の要因は、自然的条件にあるといえます。黒潮という、メキシコ湾流とならんで世界最大級の海流が日本の南西海域から北東へ流れており、その大きな分流が長崎県の西海岸を洗っています。最大流速が1.5〜3.0ノットの速さで、五島列島から対馬へぶち当たることになります。これが対馬暖流です。この流れに乗って
      数々の魚が回遊し、長崎県への海の恵みをもたらしています。その対馬暖流の西側は東シナ海(東海)であり、極めてよく発達している、世界でも有数の大陸棚が広がっています。幅が広く、深さは平均で177メートル、ほとんどのところで200メートルより浅くなっています。漁場として最適であるといわれる所以です。長崎県の水産環境は、このような自然条件に恵まれているということがいえます。

    • 主体は沿岸漁業
       長崎県の漁業はこれからの自然条件を背景に、近海・沖合・遠洋それぞれが時代の移り変りとともに、相当の漁獲を揚げるようになってきましたが、水産県長崎としての漁業基盤は沿岸漁業を主体として発展してきました。そのため漁業全体の発展性から見ると、沿岸に豊富な資源を有していることに漁民が安住し、漁獲に対しての改善が放置されてきた感は否めません。沿岸漁業の代表的魚種として、イワシ、アジ、サバ、ブリ、タイ、イカ、アマダイ、カツオ、サワラ、マグロなど十指に余るものがあります。沿岸漁業に頼っていたせいもあって、長崎県下の漁船は動力船に比べて無動力船が圧倒的に多く、戦前においては戦時徴用の影響もあって総体的には減少の道をたどっています。

    • 遠洋漁業が発達定着した経緯
       沿岸漁業が古くから主体であったのに対して、遠洋漁業はわずかに機船底曳網漁業(以西底曳網漁業)、連子延縄漁業、汽船トロール漁業によってなされたいたにすぎませんでした。これらの漁業は、ほとんどが徳島県人によって開発され、またたく間に本県漁業の屋台骨となる地位を築く発展を遂げたのです。遠洋漁業の主体をなしたのは、東経130度以西の海域で操業する機船底曳網漁業でした。小型船は五島西南海域を漁場としていましたが、大型船は遠く東シナ海・黄海にまで出漁するようになりました。漁獲される主な魚種は、エソ・グチ・カレイ・アマダイ・レンコダイ・ハモ・シズ・ナマズ(ヨロイイタチウオ)などです。

  • 鯨漁業

    • 鯨組※1の出現
       
      西海捕鯨の漁場となるのは、ナガス・ゴンドウクジラが多く回遊する平戸、生月、壱岐、五島の海域でした。『西海鯨鯢記』によると、大村藩の深沢儀太夫、生月の益富又左衛門、有川の江口甚右衛門など次々と捕鯨を創業し、73もの鯨組が活躍しました。享保10年(1725)から明治6年(1873)の148年間に2万1750余頭のクジラを捕獲したといわれています。捕獲された鯨は磯に引き上げられ、「油を絞りて千樽の限りもなく、その骨、その皮、鰭まで捨てる所なく、長者になるは是なり」と捨てるものがない程に利用・処理されました。全盛期の鯨組は、八丁櫓船30〜50隻、海陸併せて500〜1000人もの組子が従事していました。それだけに莫大な額の経費を要しましたが、捕鯨は「鯨一頭で七浦うるおす」と言われる程の巨利と経済的波及効果をもたらしました。「いわゆる一浦・一鯨をうればすなはち七郷の賑わい、一歳のうち一鯨を得るときはすなはち捕鯨の費用をつぐない、三鯨を得るときは、利多きを加えて余積百万あげて数うべからず」と、いかに鯨の恩恵が大きかったかを物語っています。鯨組の主はその財力、生活において、一国一城の大名にも劣らなかったと言われるほどでありました。当時の捕鯨は多額の資金を必要としたために藩の財力に頼ることが大きかったのですが、その半面捕鯨からあがる利益は、藩の乏しい財政を救う格好の財源でした。貞享元年(1684)には、藩営事業とも言うべき捕鯨を巡って、五島藩と富江藩の間に海境争いが起こり、この騒動は30年間続いてようやく結着したといわれます。天保11年(1840)には長崎の唐大通事・神代徳次郎が五島黄島で、13年には高島秋帆が同じく五島で、日本初の銃殺捕鯨を試みています。

      ※1【鯨組(くじらぐみ)】
      江戸時代の始め頃、鯨を積極的に捕獲する為に組織された集団

    • 近代捕鯨の始まり
       繁栄を続けた日本の網取法捕鯨は、幕末から明治にかけて急速に哀微して、明治30年代には全くその姿を消してしまいます。古式捕鯨に代わって捕鯨業界に活路を見い出したのが、明治24年(1891)日本海で大々的に展開されたロシア大平洋捕鯨鰍フノルウェー式捕鯨です。同年には早くも長崎に鯨肉が輸入されています。この頃、政府が出した「遠洋漁業報告書」には、「朝鮮近海ニ於テ露国船ノ砲殺捕鯨ニ従事スル者多ク、ソノ採取シタル鯨肉ハコレヲ長崎ニ輸入スルモノ、毎年10万円以上ニ及ブ」と記されています。長崎県は、網取法捕鯨が盛んであった関係から鯨肉とは馴染みが深く、消費・取引きは他県より活発でした。

    • 長崎の捕鯨業
       これに刺激されて、長崎では明治30年(1897)から翌年にかけて、続々と捕鯨会社が設立されていきます。明治30年1月、亀川多一郎らが長崎捕鯨組を組織して、長崎県知事宛に遠洋砲殺捕鯨漁を申請、五島鯛ノ浦を拠点に五島近海を二日間操業したが、1頭も捕獲することができませんでした。しかし、これが長崎での近代捕鯨の発祥となります。明治330年10月には長崎遠洋捕鯨鰍ニ改組して、31年4月、対馬近海に出漁しましたがわずか3頭の捕獲に終り、11月には任意解散、33年にはついに廃業となりました。明治30年(1897)長崎市在住の英国人貿易商リンガーらが英・露人組合を結成、翌31年11月に捕鯨船オルガ号を朝鮮沖に出漁させて、捕獲40頭とかなりの成績をおさめました。この年は鯨の回遊が多く、同組合のニコライ号、ギヨルギー号との3隻で、合わせて225頭を捕獲しますが、明治32年(1899)27頭、明治33年13頭、明治34年34頭と不漁続きに見舞われて組合は操業を停止しました。明治31年(1898)、長崎市稲佐町の松森栄三郎が捕鯨会社を設立し、捕鯨船初鷹丸(120トン)で五島近海を操業しましたが、不振のため明治33年、事業船を五島捕鯨に譲渡しました。明治33年(1900)10月、長崎の山野辺左右吉が山野辺組を設立、五島捕鯨の初鷹丸で近海に出漁するが不漁に終りました。明治36年(1903)、山野辺は、林包明、原信一、吉田増太郎らと組合をつくり、下関市の一○会社よりオルガ号をチャーターして出漁し、37年7月までに81頭を捕獲しました。明治37年(1904)11月、山野辺は組合を改組して、長崎捕鯨(合)を長崎市玉江町に設立し、38年7月までに91頭を捕獲しますが、オルガ号が他に売却されて事業船を失い、代船操業にも失敗して、その後、明治39年2月まで1頭も捕獲することができませんでした。

    • 長崎県捕鯨の企業統合
       明治39年(1906)以降は下関の日本遠洋漁業梶i一○会社)が主導権を握り、捕鯨船・解剖船・運搬船など13隻の操業で、明治39年〜41年7月の間に、対馬・五島周辺で384頭捕獲して成績をあげています。明治40年(1907)9月、捕鯨取締規則が公布されます。翌41年には会社数12社・捕鯨船38隻・捕獲数も一千数百頭と乱立。過当競争に陥ったため、資源保護の面から企業合同が提唱され、長崎捕鯨(合)は他の3社と合併して、明治42年(1909)5月、新会社東洋捕鯨梶i後の日本水産梶jの傘下に入り同社は解散することとなりました。明治37年(1904)の設立以来、6隻の捕鯨船を所有し、42年(1909)4月まで5年弱の期間でありましたが、捕獲頭数943頭、1頭平均売上1978円と業界最高の実績を誇ったのが、長崎捕鯨(合)でした。

    • 捕鯨業の再編 
       その後の捕鯨業界は、大正期から昭和の初年にかけて企業再編が繰り返されて、東洋捕鯨梶i後の日本水産梶jと林兼商店梶i後の大洋漁業梶jのニ系列に集約されました。さらに極洋捕鯨鰍煢チわって南氷洋捕鯨業は、戦前、林兼商店梶E日本水産梶E極洋捕鯨鰍フ3社が、母船6隻をもって操業していました。戦後の捕鯨は、小笠原島近海での操業から再開されました。昭和20年11月30日、GHQ(連合国軍総司令部)の許可により、翌年3月30日までの期限付きで出漁が可能となりました。第1回は大洋漁業鰍ェ元海軍第19号輸送船を母船(1200トン)にし、キャッチャーボート2隻を従えて出漁、113頭を捕獲しました。以後は、大洋・日水・極洋3社の共同事業の形で出漁して、昭和22年350頭、23年243頭、24年205頭、25年306頭、26年340頭と安定した操業が続けられました。

    • 沿岸捕鯨の分割
       戦前の沿岸捕鯨の許可は25隻でありましたが、そのうち19隻を保有していた日本水産鰍ェ戦後の経済力集中排除法によって分割されることが予測されたため、これを目指して昭和22年頃より許可申請が水産局に殺到しました。戦後、漁業界に進出した長崎の川南工業鰍煖哩ツ獲得に乗り出しましたが、日本水産鰍ェ所有する操業許可は、昭和26年までに極洋捕鯨梶A日東捕鯨侃日本近海捕鯨鰍ノ分割譲渡され、沿岸捕鯨は日本水産侃大洋漁業鰍併せた5社で経営が続けられることとなりました。

    • 南氷洋捕鯨の再開
       昭和21年8月6日、GHQは食糧問題解決のため、大洋漁業侃日本水産鰍ノ南氷洋捕鯨再開を許可しました。南氷洋捕鯨再開にあたり大洋漁業鰍ヘ積極的に行動し、当時、三菱長崎造船所で建造途中の輸送船2隻を買取り、短期間で改造し、捕鯨母船・第1新丸(1万1781トン)、鯨肉運搬船・天洋丸(1万269トン)と命名して、昭和21年10月15日、同20日にそれぞれ引渡しを受けました。3度出航を延期した第1日新丸は、天洋丸のほか冷凍運搬船1隻、キャッチャーボート5隻と船団を組み、昭和21年11月18日、戦後における捕鯨再開の第一陣として、長崎港から一路、南氷洋へと向かったのです。途絶以来6年ぶりの出漁でした。日本水産鰍ヘ橋立丸(1万トン)を母船に計8隻が、昭和21年11月7日、大阪港を出帆しています。大洋・日水の2船団で操業された第1次南氷洋捕鯨の成績は、大洋漁業鰍ェ計画の68.5%、日本水産株が49%と不振でした。この南氷洋捕鯨2船団時代は昭和28年まで続きますが、昭和29年には極洋捕鯨鰍ェ1船団ずつ増強して5船団に、昭和32年には大洋漁業鰍ェ1船団増やして6船団に、さらに昭和35年には極洋捕鯨鰍ェ1船団を新たに編成しました。世界21船団中、日本は大洋2・日水2・極洋3の7船団を保有し、ノルウェーの8船団に次ぐ捕鯨大国となっていきました。戦後、昭和23年に発効した捕鯨条約に、日本は26年4月に加盟しています。この条約で、南氷洋の1漁期に捕獲できる頭数は、シロナガス換算(B.W.U)で1万6000頭と決められ、制限頭数に達するまでは各船団の無制限競争が認められていました。これが捕鯨オリンピックと呼ばれた由縁です。

    • 捕獲制限時代
       鯨類の中で、油や肉を量産できるのはシロナガスクジラが一番で、次がナガスクジラです。このため効率の良い捕獲対象として、この2種の鯨が狙い打ちされて年々資源が減少していきました。第一次南氷洋捕鯨の捕獲頭数のうち、シロナガス47%、ナガス53%であったものが、第六次の昭和27年にはシロナガス9%、ナガス91%と大差がついてしまいます。これを受け、鯨類保護の国際規制の動きが強まりはじめたのは、昭和33年頃からです。
       昭和37年  国別割当が成立(制限1万5000頭)する
               日本41% ノルウェー28% ソ連20% オランダ6%
               イギリス5%
        〃 38年  総枠1万頭に削減
        〃 39年  総枠8000頭となる
       昭和30年代の日本船団は7船団から5船団に、さらには 3船団(昭和43年)へと制限の道をたどらねばならなくなりました。そして昭和57年7月のIWC(国際捕鯨条約機構)第34回本会議では商業捕鯨の全面禁止案が可決されます。

    • 戦後の長崎県捕鯨業
       長崎県では、南松浦郡玉ノ浦町荒川、富江町福瀬山を基地とした近海捕鯨(通称五島捕鯨と言われた)が行われています。当時、東シナ海に鯨が回遊している事は、以西底曳船や旋網船によって確認されていました。長崎や下関を基地とする大洋漁業鰍フ底曳船には、航行中に視認した鯨の種類、頭数、発見位置等の報告を義務づけていました。また同社は、玉ノ浦町荒川小学校の校庭からヘリコプターを使って採鯨のための綿密な漁場調査も行っていました。玉ノ浦町には、江戸時代から有川・魚目にあった鯨組のように組織的な捕鯨の歴史はありませんでした。同町での捕鯨業は、昭和30年に大洋漁業鰍ェ荒川に、昭和33年には極洋捕鯨鰍ェ小浦に、昭和34年には日東捕鯨鰍ェ布浦に、それぞれクジラの解体処理工場を設置して近代的捕鯨を開始したことに始まります。

    • 長崎県捕鯨の全面撤退
       昭和30年7月26日、大洋漁業鰍フキャッチャーボートが、ナガスクジラ4頭を捕獲しました。これが五島沖における漁獲第1号でした。大洋漁業鰍ヘさらにキャッチャーボート4隻を加えて、操業日数83日間で、226頭を捕獲しています。操業は夏場であったため(冬期は南氷洋に出漁)、鮮度低下をきらって鯨にオーニング(キャンバス製の被覆)を被せて曳航したといいます。昭和33年度には、極洋捕鯨梶A日東捕鯨梶A近海捕鯨鰍フ3社が新たに加って操業しましたが、悪天候と競争の激化が原因して不振のまま終わっています。昭和34年度以降は漁獲頭数が激減し、昭和35年、大洋漁業鰍ヘついに五島での捕鯨を中断します。他の会社は、その後も漁船通報によって、昭和39〜42年まで回遊豊富な年には規模を縮小しての継続出漁が行われましたが、昭和42年の36頭捕獲を最後に撤退してしまいます。極洋漁業鰍ヘ事業所を開設した昭和34年には25頭、35年には10頭を捕獲しましたが、その後捕獲の記録はなく、昭和40年に事業所を閉鎖しました。日東捕鯨鰍ヘ昭和34年5月に事業所を開設しましたが、操業を行う事なく11年間を過ごしました。その後、昭和46年31頭、47年18頭を捕獲しましたが、昭和48年、6頭の捕獲を最後に事業所を閉鎖しました。日本水産鰍ヘ昭和31年、富江町に捕鯨基地を置いて操業を開始し、2〜3年の間は成績も上がりましたが、年々資源が減少して、昭和40年には操業を中止しています。その後、基地施設一切を富江町に寄付して、昭和45年3月末日で富江町から撤退してしまいました。捕鯨基地が撤退した後も従業員のうち十数名は捕鯨関係業務に従事していましたが、資源の減少は著しく、やがて捕鯨関係事業は玉ノ浦町からも姿を消してしまいます。昭和63年には、日本の沿岸捕鯨は商業捕鯨の全面禁止によって同様の運命をたどることになります。

  • トロール漁業

    •  長崎魚市場が、数ある産地市場の中で常にトップの座を占めていた要因は、目の前に東シナ海・黄海という天与の海を抱えた地理的条件と、止まるところを知らぬ漁業の成長に支えられてきたからですが、その中で特筆すべきは、大量漁獲に先鞭をつけたトロール漁業の導入と、機船底曳漁場に先鞭をつけた阿波(徳島)漁民の開拓精神であったといえます。特にトロール漁業と機船底曳網漁業および旋網漁業は、西日本を代表する三大漁業として大発展を遂げ、多年にわたって長崎魚市場を支える主要産業に位置づけされていきます。

    • 初期のトロール漁業
       トロール漁業とは汽船で袋状の網を曳き、タイ・エソ・グチ等の底魚を捕獲する漁法で、17世紀にオランダ、イギリスで操業されていました。日本では明治38年(1905)木造船で試みられましたが、貧弱な船体は強力な曳網力に耐えきれず、また沿岸操業を行なえば魚を根こそぎ持って行くという漁法から、漁民の焼き打ち(千葉県で発生)など、猛烈な反対運動が起こって失敗に終わっています。

    • トロール漁業と倉場富三郎
       西日本海域でのトロール漁業は輸入漁法です。発祥地が長崎という関係から特に縁の深い漁業といえます。明治40年(1907)長崎在住の英国貿易商トーマス・グラバーの次男・倉場富三郎は、長崎商業会議所会頭・永見寛二等とトロール漁業を目的として、資本金15万円の「長崎汽船漁業梶vを設立し母国イギリスにトロール船を発注しました。翌年、鋼鉄製トロール船「深江丸」(160トン)が到着、英国人技術者3名の指導の下に、五島沖で試験操業を行なって成功を収めました。これが我が国での本格的な汽船トロール漁業のはじまりです。同年、田村市郎(のち共同漁業梶ィ日本水産梶jも国内建造船で操業を開始しました。倉場富三郎は汽船トロール漁業の創始者に止まらず、彼の創意によって「近代漁業への道が長崎で開花」したと言っても過言ではありません。また、漁港施設の改善・水産物流通の変革など、長崎の産業・文化に大きな影響をもたらした人物でもありました。

    • 漁業の規制
       深江丸や第1丸(田村漁業部)の成功に刺激されて欺業を行なう者が続出しました。当時の漁場は長崎県五島・佐賀県玄海灘周辺であったため、”根こそぎ漁法”によって急激な資源の落ち込みに憤激した沿岸漁民との間に暴力事件が頻発しました。各地の反対運動は、遂に「汽船トロール漁業禁止請願」にまで発展したため、政府は明治42年(1909)「汽船トロール漁業取締規則」を施行しました。これによってトロール漁業は大臣許可漁業となり、沿岸域に操業禁止区域が設定されて、漁場は朝鮮半島西沖に移動することとなります。これにより根拠地を下関に移す者が増加します。沿岸操業から締め出されたトロール漁業は、朝鮮半島南西沖を操業してタイの新漁場を発見、意外な好成績を挙げる幸運に恵まれ、業界は益々活況を呈してきます。明治42年の漁業規則実施にかかわらず依然として沿岸漁民との紛争が絶えないため、政府は明治44年(1911)180トン以下は不許可に、大正元年(1912)には操業区域を東経130度以西の海域にと大幅な制限措置に踏み切りました。明治42年(1909)から44年にかけては、トロール漁業の第1期黄金時代と言われ漁船の新造も相次ぎ、明治44年の長崎を根拠地とするトロール船は、表5の通りで、全国トロール漁船数の7割を占め、ほとんどが長崎資本でした。禁漁区域の拡大によって漁場が東海へと移動したため、漁場に近い長崎港が再びトロール基地として浮上し、下関基地船も次々と長崎に移動するようになり、大正元年(1912)の長崎を根拠地とした35隻のうち長崎船籍船は19隻に増加しました。

    • トロール漁業の危機
       操業海域が遠隔化したために、漁船は200〜250トン、乗務員16〜17人と大型化しますが、操業回数は日に5〜6回から3〜4回へと減少して1船当たりの稼働率は徐々に低下してきました。それにもかかわらず漁船数はトロール漁業の高収益を反映して、明治41年(1908)の6隻から、大正2年(1913)には139隻と急増して最盛期を迎えるのでした。それに伴って漁獲量も急増し、長崎魚類集散場の処理能力を越えて搬入されたため魚価の暴落を招き、また航海日数の延長は鮮度低下と経費増となって各地で廃・休業に陥る業者が出るなど、次第に経営悪化の道をたどり始めます。この不況状態を打開しようと、大正3年(1914)企業合同の気運に乗じて田村一郎らが、トロール船25隻を傘下に、共同漁業梶i後の日本水産梶jを設立して再建を計っていきます。

    • 第1次大戦の影響
       
      危機に直面した水産業界に景気回復を促したのが、大正3年(1914)に勃発した第1次大戦です。トロール船は軍需用として連合国の引き合いが急増し、船価5万円程度のものが20〜25万円で取引きされ、窒息状態にあった業者は先を競うように船を売却したため、大正6年(1917)には、わずか7隻にまで減少してしまいます。トロール船は長崎から全く姿を消すこととなり、長崎魚類集散場は大打撃を蒙るのです。長崎汽船漁業鰍烽サの後解散して、前期黄金時代を謳歌したトロール漁業史はあっけなく幕を閉じてしまうのです。
       トロール物が70%を占めていた長崎魚類集散場の水揚のうち、取扱数量と価格とを比較すると、大正2年(1913)には1961万5451斤・164万1962円、大正6年(1917)には10億41万4000斤・126万9510円、(うちトロール物3万6100函・31万5086円)となり取扱数量が大幅に増加したものの、価格面は極度に落ち込みをみせていることがわかります(『魚市だより』39号より)。トロール船の入港隻数は、大戦終了後の新船就航によって回復に向かいますが、この間隙うぃ縫って”新興”の以西底曳物が進出してくるのです。

    • 昭和期のトロール漁業 
       5年間にわたる第1次世界大戦は、大正7年(1918)にようやく終結します。この年、政府はトロール漁業の再建に着手して、トン数を200トン以上、隻数を70隻以下に限定する取締規則の改正を断行します。以西底曳網漁業がいまだ微々たる動きの中で、乱立をはばむ規則の施行によってトロール漁業は再び息を吹き返します。大正12年(1923)には早くも70隻に達する勢いとなって後期の黄金期を迎え、新興の以西底曳網漁業と、し烈な競争を行いながら、太平洋戦争時代を辛うじて生き抜くのです(昭和20年の残存稼動船は7隻)。

    • 長崎市とトロール漁業 大正元年(1912)、尾上町にトロール物専用の長崎市営魚類集散場が海上されますが、この時期、トロール業組合(組合長・倉場富三郎)は、下関船の長崎移籍によって取扱量が急増するのと鉄道運賃値上げを理由に、次の要望書を長崎市に提出します。
       1、仲買人や販売取扱人を増員する。
       2、市場手数料を10%を7%に引き下げる。
       これを受けた長崎市は、「トロール漁業の長崎経済への貢献度・影響はすこぶる大なり」としてすんなりと要求を受け入れたといいます。大正2年(1913)、長崎市の「トロール漁業ニ関スル調査」では、「・・・・・・トロール船の根拠地として最利便なるは我長崎港にして当港は目下未だ漁港としての設備充分ならぬ為に根拠地を当港に移すを躊躇するもの少なからずと雖も早晩必ずトロール船は当港を基点とすべき運命を有するものの如くかくして長崎は将来斯業の大根拠地として又一大漁港として面目を一新するに至らんか」と長崎港の将来を見事に予測しています。

    • 戦後のトロール漁業
       以西底曳網漁業と並んで戦前遠洋漁業の花形であったトロール漁業は、外地根拠地船を含めて総隻数82隻(以西底曳漁船は1243隻)と最大隻数に達し、漁獲高も昭和15年には900万貫(以西底曳漁船は4000万貫)を記録したが、戦時中の徴用喪失等で勢力は激減して、終戦時内地残存許可船はわずかに1隻(以西底曳漁船は151隻)と壊滅に等しくなりました。戦後は食糧増産という大義名分で急速に回復を遂げ、昭和22年末には56隻となり、制限許可数60隻に達する復興ぶりを示しました。こうして漁船勢力は復旧したものの、業界の悩みはマッカーサーラインの制定によって漁場面積が戦前の15%に縮小されたことにありました。この制限漁区内で以西底曳網漁船群との競合を強いられたために漁獲量は低下し、以西底曳船と同様、区域外操業に走らざるを得ませんでした。しかし、これも昭和24年に行われた減船整理の対象となり、ながて東シナ海漁場から南方海域へと転進して命脈を計ることとなります。長崎では日本水産葛yび大洋漁業鰍ェ、既存業者として操業していましたが、昭和21年3月、造船業の川南工業鰍ェ水産部を設立、トロール業界に新規参入し、自社造船力を生かして同年末には7隻を保有するに至ります。同社は恵浦水産鰍ニ改称し、後に日本水産鰍ノ合併されて根拠地を戸畑港に移し、また大洋漁業鰍フトロール船も下関港に移籍されて、トロール船は長崎港から姿を
      消してしまいます。

  • 機船底曳網漁業(以西底曳網)

    • 漁業の原型
       機船底曳網漁業は、日本人の手によって開発された唯一の漁業です。漁法は袋状の網を機船で曳き底棲魚を捕獲するもので、効率的かつ安定性の高い漁法という評価を受けて、大正末期から昭和初期にかけて急速に発展していきます。原型は「フタリ網」や、風を帆に受けて網を曳く「打瀬網」です。大正の初期から各地で動力化が試みられ、いつとはなしに「機船底曳網漁業」、または単に「手操り」の新語が生まれて、本漁業の歴史が始まるのです。

    • 漁場環境
       機船底曳網漁業の主漁場は、九州西方海上に拡がる約27万平方キロメートルの広大な東シナ海・黄海です。この辺りは南西諸島から分流する暖流と、渤海湾や日本海から対馬を経て北上する寒流の合流点であるため、四季を通じて寒・暖系の魚類が回遊し、「魚が湧く」「魚の富庫」とも呼ばれ、掃海漁法の機船底曳網漁業にとっては最適な環境を備えているといわれる海域です。底曳網漁業は沿岸操業時期から一網打盡的な漁法といわれ、沿岸漁民との紛争が絶えませんでした。たとえば、明治から大正中期にかけて五島周辺はタイの漁場として知られていましたが、曳網漁業の発展によってまたたく間に漁場が荒廃してしまいます。このようなことから、底曳網漁業の歴史は必然的に紛争と取締り、そして減船の悲運につきまとわれることになります。

    • 以西底曳網漁業の経緯
       政府は大正元年(1912)、トロール漁業規制のため操業区域を東経130度以西と定めますが、大正10年(1921)には沿岸漁民との紛争防止と資源保護のために「機船底曳網漁業取締規則」を公布し、50トン以上をトロール漁場と同じく東経130度以西の漁場に限定しました。これが以東(東経130度以東)底曳と以西底曳との分岐点で、以西は2艘曳、以東は1艘曳きという手繰りの型式をとって、それぞれ別の道を歩み始めます。これ以降、機船底曳網漁は「以西底曳」の名が通称となり今日に至っています。以東底曳も急速に成長して、昭和5年には許可数2700隻に達するが、やがてこれも以西同様、減船整理の対象となります。以西底曳は、沿岸漁業との摩擦が回遊されていたため単に30トン未満の小型船整理にとどめられました。

    • 以西底曳漁業の系譜
       以西底曳の起源は明治中期にあり、その生成期には、島根県出雲の片江船団と、徳島県の阿波船団の2つの系譜に分けられます。片江船団は五島青方から大正6年(1917)に北松浦郡大島的山に根拠地を移して玄海灘・東シナ海に進出し最盛期には74隻に達しましたが、1艘曳から脱し切れず、これに経済問題も加わって以西漁場から徐々に撤退することとなります。

    • 阿波漁民と以西底曳
       東シナ海の以西底曳網漁業は徳島県阿波漁民の手によって開拓され成熟していきます。明治中期、博多沖で操業した一本釣から、延縄→機船延縄→機船底曳へと変換していきました。

    • 延縄から底曳網への転換
       大正11年(1922)二艘曳漁業が成功すると、延縄に従事していた阿波の九州出漁者は、競ってこの漁業に転向しました。大正8年にはわずか9隻であったものが、大正12年には106隻という機船底曳ブームを現出しています。漁船の増加で、東シナ海漁場でさえタイ類の減少が目立ってきたので、政府は対象13年(1924)「以西漁場で操業すべき機船底曳網漁船は新に許可せず」との水産局長通達を発し、漁業調査の第1歩を踏み出しました。

    • 根拠地移転
       五島玉ノ浦町を根拠地とする延縄船は、第1次世界大戦後の活況を受けて好調の波に乗り、大正8年(1919)には、漁船数50隻を越える全盛期を迎えたにもかかわらず、これが底曳網漁業に大量転向した理由は、底曳網の漁獲量が延縄船に比べ比較にならぬ程多かったからです。しかし、大量の漁獲物を揚げるようになると経営規模は大きくなり、離島での資材の仕入、漁船の修理、船員の休養にも極めて不利・不便が生じ、漁獲物の配送においても漁場に近いということより、むしろ販売に有利な本土に事業基地を求める者が続出して、仕込業者の関係から以西底曳網漁業は、その根拠地を長崎・伊万里・福岡へと分散、移動していきます。

    • 問屋資本の参入
       その頃の漁業は、銀行融資の対象外であったため、転換に当たっては、漁船建造資金、仕入金など一切を山田屋・林兼商店などの地元問屋資本に頼らざるを得ませんでした。貸付金は金利を取らず漁獲物を口銭1割で問屋に引き渡すのが慣習でした。

    • 以西底曳漁業の経営
       昭和10年の統計によると、長崎の大手経営者は、高田万吉22隻、山田屋商店21隻、(ほかに延縄船3隻)、森田屋商店8隻、林兼商店40隻(ほか甘・梶木延縄船29隻)などです。
       以西底曳船の1航海日数は、漁場往復8日・操業14日で平均22日位です。毎年7〜9月は修理検査の休漁のため、年間操業は11〜13航海が限度でした。したがって1航海当たりの漁獲高は7000円前後をあげていたことになります。長崎県の以西操業許可船は、大正14年(1925)の212隻(以西底曳190隻)が、昭和6年には409隻(1隻平均36トン)と急増し、昭和10年には356隻(堂44トン)となっています。このうち53隻の減少は、許可トン数を超えない範囲内での大型化のため小型船が犠牲になったからです。大正9年(1920)、五島沖で始められた底曳網漁業は、その経済性から増強の一途をたどり、昭和6年には409隻(戦前の長崎港を基地とする以西底曳船は250隻・延縄船38隻)にも達しましたが、その陰には悲運に倒れた人達がいたことを忘れてはなりません。昭和8年9月、東シナ海を襲った度重なる台風は、底曳船11隻・乗務員120名の命を奪うという空前の惨事を引き起こします。このほか作業中の事故・沈没等によって700人以上の尊い人命が失われています。言い換えれば、これらの人々の犠牲の上に成り立った漁業ともいえるのです。

    • 漁場制覇  
       以西底曳網漁船団は、同一海域で操業するトロール船と熾烈な競争に明け暮れますが、経済性に劣るトロール漁業は圧倒的な以西船団に排除される形で、次第に東シナ海漁場から海南島、ベトナム沖の新漁場へと南下して、東シナ海海域からその姿を消してしまいます。これによって東シナ海漁場は以西底曳網漁業の独占漁場となるのです。

    • 昭和初期の魚価
       昭和7年より5年間に長崎魚市場に水揚げされた鮮魚の貫当り平均価格は、
      62銭8厘、貫当たり16銭7厘でした。厘という単位が流通していた時代と、今日の貨幣価値とでは比較になりませんが、平成7年度、長崎魚市叶揚げの平均魚価385円と当時の魚価を比較すると、2,305倍ということになります。ちなみに、昭和10年の長崎魚市場所属問屋10店・仲買10店の平均取扱高は、問屋業(山田屋商店ほか9店)42万2661円、仲買業(古賀金商店ほか9店)28万1144円となっています。

    • 以西底曳網漁業団体の変遷
       明治42年(1909)打瀬網の動力化が開発されてから、東シナ海・黄海海域を主漁場として約90年の歴史を持つ以西底曳業界を代表する団体は、時代の流れとともに幾多の変遷を経て今日に至っています。以西底曳業界団体として、最初に設立されたのは、明治43年(1910)11月の日本汽船トロール水産組合(組合長・倉場富三郎)です。このあとトロール漁業の発展に伴って改組を繰り返して、大正6年(1917)3月に日本トロール水産組合が設立されましたが、同組合は水産統制令の施行によって、昭和18年10月に解散しました。

    • 底曳関係での設立組合
       昭和17年5月、水産統制令の公布によって統制対象漁業に指定されたトロール漁業は、日本海洋漁業株が経営することとなりましたが、底曳網漁業については、蒲ム兼商店・日本水産梶E日之出漁業鰍フ3社以外は個人経営が多く、海洋漁業統制会社として単一化することが困難と判断されて見送られることとなりました。その中で、帝国水産統制鰍フ設立に当たっては、前期3社を除く遠洋底曳網連合会傘下の組合員をもって、帝国水産統制会社出資組合を結成し、28万円を拠出して出資参加の形をとっています。その後、底曳網漁業の整備統合については、水産局を中心とした検討が重ねられましたが、戦局の進展、その他の事情から遂には実現しませんでした。昭和19年9月18日には当局の指導の下に、西日本機船底曳網漁業水産組合が、組合員137名、稼動船193隻を擁する単一組合として発足し、下関・福岡・長崎にそれぞれ支部を置いて業務を開始しました。

    • 底曳網漁業協会の発足
       昭和20年10月、水産統制令が廃止(12月1日施行)され、帝国水産統制鰍ヘその役割を失い、資材業務を担当する海洋漁業協会が12月17日に設立されます。昭和22年(1947)7月、西日本機船底曳網漁業水産組合は、日本遠洋底曳網水産組合に変更し、以西底曳漁業をすべて包含した、完全な単一水産組合として再発足することとなりました。ところが旧漁業法に基づいて設立された団体だけに、いずれは組織の変更となることを先取りした形で、昭和23年1月28日、解散します。これによって以西底曳漁業を統轄する団体はなくなりましたが、山積する難問を克服し、業界の堅実な発展を図るためには、新時代にふさわしい組織作りをとの気運が高まり、秋山俊一郎・田口長治郎・徳島岩吉・増田茂吉ら17名が選ばれて、新団体の設立が協議されました。その結果、昭和23年2月25日、遠洋底曳網漁業許可保有者207名のうち152名の参加を得て誕生したのが、社団法人日本遠洋底曳網漁業協会です。協会は本部を東京に置き、下関・福岡・唐津・長崎に支部を置いて、組合員の利害を調整しながら、マ・ラインの撤廃、日中韓問題、減船整理、網目規制、災害防止等々、業界の秩序維持と共存を計って今日に至っています。

  • イワシ漁業の変遷

    • イワシ網漁業
       イワシ網漁業は、我が国が最も力を入れた漁業種目の一つでした。大型地曳網に代表される九十九里浜のイワシ漁業は、明治10年(1877)頃から衰退し始めます。これは魚群の来遊が減ったことや、魚道の変化に対応できなかったこと、一ヶ統に漁夫60名ほどを要し、ニシン漁に追尾された形で漁業経営が困難になったことなどがあげられます。イワシ漁業は地曳網の衰亡にかわって巾着網、揚繰網がこれを支え、動力化、沿岸から沖合進出によって再起し、昭和5〜15年の10年間は漁獲量100万トンの時代を迎えることとなります。九州西海の代表的漁業は、その特徴のほとんどが上方漁民の通漁・移住によって開発されています。クジラ・イワシ・ブリ漁は、紀伊・泉和(和歌山)・播州(兵庫)・安芸(広島)・長門(山口)等の移住漁民が、また大正期のタイ・アマダイ漁は、阿波(徳島)漁民の手によって開拓され発展してきました。移住地も五島・対馬・島原・野母と県下至る所にその足跡がしるされています。通漁の初期にもたらされたものはイワシでした。特に五島奈良尾にはイワシ漁の先進地、紀州広浦からの入漁が最も多かったことから、後年、イワシ漁業の中心漁村として成長していくことになります。イワシは、以西底曳網漁業と長崎魚市場の水揚量を二分する重要水産物ですが、その漁法は時代と共に改良、変化してきました。明治初期までは八田網と呼ばれる敷網法でしたが、次に両袖・袋がつけられた縫切網といわれる船曳漁法が登場します。これが明治中期に双手巾着網に切り替わるまで、長崎県イワシ網漁業の代表的漁法でした。最も普及していたのが有喜村を中心とする千々石湾一帯と西彼杵郡でした。やがてイワシ網先進地の有喜村から五島出漁を試みる者が現れ、明治15年(1882)には岩瀬浦の峯脇元吉・野村金助が操業を始め、数年後には奈良尾に伝わったとの記録が残されています。ただし、当時の縫切網漁は技術的な面で能率が悪く、獲れる魚も小羽イワシなどにかぎられていました。

    • 旋網(まきあみ)漁法
       魚群を巻き込んで締める旋網漁法がアメリカで発明され、名がs期にもたらされたのは明治32年(1899)です。長崎県は地方費によって新式網を製作し、南高来郡漁業組合に貸与して試験操業を行なわせています。次いで、南松浦郡中通島漁業組合、対馬漁業組合などでも実験を重ねて「其結果頗る良好」の好成績をあげました。この漁法は実用化の段階から「双手和船巾着網」と呼ばれていました。千々石湾での試験操業では、従来の縫切網に比して3倍以上の漁獲を得たといいます。

    • 朝鮮半島における近海通漁
      明治40年(1907)頃から県内巾着網船団は朝鮮半島近海のサバ漁業にも進出します。この頃林兼商店(後の大洋漁業梶jは、石油発動機付運搬船を建造して、朝鮮海域で通漁買魚活動に力を入れており、明治43年(1910)には方魚津に営業所を置いてアジ・サバの氷蔵輸送を開始します。県内では明治43年に長崎県遠洋漁業団が組織されたのを契機に、サバ巾着の朝鮮半島通漁が始まって、明治45年(1912)には624隻・従事者数2840名に達し、このうちサバ巾着網は24統・996名が巨済島を根拠地として操業しています。出漁船団は当初、長崎の明治商会などに漁獲物水揚を委ねていましたが、林兼商店や山神組(のち日本水産鰍ノ吸収)などの有力会社が買付けを本格化する大正4年(1915)ころから、その仕込支配下に置かれるようになります。大正9年(1920)林兼商店が片手廻機船巾着漁業を開発してサバ漁業の直営に乗り出し、仕込買魚を打ち切ったため、これ以降、資本力による支配に圧倒されていくのです。

    • 米式巾着網の採用
       長崎県水産試験場は、大正11年(1922)から機船・長洋丸(13トン・30馬力)を使って米式片手巾着網漁業試験に着手します。目的は沖合での大羽イワシ資源の開発と乗組人員の削減(和船双手網の半数27人)、発電集魚灯の採用による経費節減、いわば技術改革による省力化と漁獲効率の向上を計るものでした。この結果、大正14年(1925)に西彼杵郡樺島村と式見村で、大正15年には生月村で網船の動力化が始まり、昭和初期における片手廻し巾着網漁業の展開条件が技術面で整っていきます。

    • イワシ利用の変化
       運搬手段が発達する以前のイワシ類は、大半が魚粉肥料として農村で消費されていました。県内での肥料製造販売高は、明治39年(1906)について見ると、総量5098トン。このうち干イワシ・〆粕(搾油したあとの魚粕)などの肥料用は3706トンで、製造高の73%に達しています。このうちの1527トンの70%が佐賀県に、他は九州域内で80%強が捌かれていました。明治後期になって小・中羽イワシの煮干・目刺・桜干などの食用向加工品として製造が始まってきます。

    • イワシの利用状況
       
      長崎港に水揚されるイワシは、加工用、市民配給用、県外出荷等々になっていますが、その利用状況は鮮魚として、または他都市へ出荷される分が大部分の比率を占めています。この現象は戦時中ならばに昭和23年当時の食糧事情を反映したもので、過去においては鮮魚としての利用はきわめて少ないものでした。戦時中のイワシの利用方法は、次のような状況でした。
        シラス     ほとんど煮干に製造されました。
        中羽イワシ  目刺・塩干・塩蔵・鮮魚として活用されました。
        大羽イワシ  70%までは搾粕原料となり、残りの30%が缶詰原料として販売さ           れていました。
       長崎県のイワシ製品製造高は大正12年(1923)1万5000トンを突破する勢いで、このうち煮干は4400トンと県内生産量の30%にも達しています。煮干は「カツオ節の高騰に伴い削節の代替品として需要激増」したのが、生産増大の要因でした。

    • 周年操業体制へ
       大正末期に生月の井元米吉が米式巾着網の操業に成功して、イワシ網動力化と片手廻しへの転換が計られていくのですが、この頃から漁業の呼称も巾着網から揚繰網へと変化していきます。操業体制も昭和5年92統・10年120統・15年275統と、漁船団の大型化に伴って漁獲対象も近海から五島灘にかけての大・中羽イワシと対馬沖のアジ・サバ漁を組合わせた周年操業体制が確立されていきます。

    • 異業種からの参入
       
      戦後の揚繰網繁栄の特徴は外部資本勢力の流入です。これらのうち積極的な経営展開を図ったのは、大洋漁業鰍はじめとする底曳業界の資本参入でした。大洋漁業鰍ヘ大正時代、朝鮮海域で機船巾着網を直営して以来、業界の発展に主導的役割を果たしてきましたが、その経験を生かす意味で、戦後も野母・対馬・牛深などを根拠に揚繰網経営に乗出します。経営統数は昭和27年には揚繰網5統・米式巾着網2統と小規模でありましたが、系列の長崎漁業梶A長門漁業鰍ネどの経営統数を加えると県下最大の規模でした。万生丸漁業は以西底曳網漁業の先駆者として業界の主導的役割を果たしていましたが、昭和9年から揚繰網漁業に参入、4船団・運搬船5隻で式見を根拠地として集魚灯・ネットホーラーの開発導入を計るなど、業界の発展に寄与した功績も大きかったのです。加えて昭和23年には3統を再建して経営に乗り出しています。山田屋商店も式見・樺島・野母を根拠地に4統を経営しています。

    • 長崎魚市場と揚繰網漁業
       揚繰網漁業の水揚基地として成長しつつあった長崎魚市場では、昭和10年、市場外取引であったイワシを『関係者の切なる要望によって本場の統制圏内に収むべく」として、イワシの魚揚場(第3魚揚場)を設けて取引きを開始します。イワシの集荷目的は、場内取引を進めるほかに、そのころ急速な生産拡大基調にあったトマトサージン製造の原料確保のためでもありました。これによって生鮮イワシの集荷取引が著しく増大してくるのでした。こうして県下各地では揚繰船主層が台頭し始め、資本漁業集団として生産基盤の確立に向かっていきます。『長崎県水産要覧』は昭和10年の揚繰網漁業について「産額の第1位を占む鰯は・・・・・・年産額2800万貫・260万円を産し、しかもその7割5分は搾粕その他の原料に供せられ、その製品総額は6700万円に及び、さらに近年急激に発展したるトマトサージンの産額を加うるにおいては加えて1000万円を超過す・・・・・・而して鰯は主として各種定置網及揚繰網に依りて漁獲され、その2割5分は鮮魚として、7割5分は各種製品の原料として販売さる」という、その活況ぶりを伝えています。しかい昭和12年、日中戦争勃発を境に、熟練漁業者は戦時動員で漸減して労力不足に陥り、製造業も老人・婦女子の手で細々と維持・生産されていましたが、戦争の激化とともに近海への出漁も思うにまかせず急激な生産低下に陥るのです。

    • 戦後の復興
       戦時中漁業は半ば休漁状態にあったため、西日本の沿岸にはイワシが大量に回遊して、当時の貧弱な装備の小型木造船でも大漁が約束されていました。その頃は人があり余っていた時代です。資金と船の調達が可能であれば、低額の投資ですむ揚繰網漁業に容易に参入できました。このような条件下で長崎県沿岸の揚繰網漁業の復興は急速に進展しました。『県水産年鑑』によると、昭和22年度の操業数は、揚繰網136統、縫切網49統、地(船)曳網177統と記録されています。

    • 揚繰王国
       昭和24年長崎県全体の旋網統数は561統という膨大な数に達して、「揚繰王国」と称される繁栄を迎えるのです。統数は、漁場の地理的関係から県北西部に集中しています。戦前、揚繰網漁業の先進地であった奈良尾、生月は昭和10年代の生産力を回復し、統数も増えて県下有数の勢力を保持するようになりました。また網船の規模は、戦前の主力船型であった19トン型に、漁撈方法も従って双手廻しが支配的となりました。

    • 揚繰王国の崩壊
       戦後統制と豊漁に支えられた状態の「揚繰王国」も長続きはしませんでした。昭和25年の統制撤廃と、その後のドッヂ・デフレ実施に歩調を合わせるかのように、イワシの水揚げが激減します。五島海域を襲ったイワシ資源の変動により、不振に陥った県下の揚繰網船団は、sっ昭和25年から翌年にかけて対馬沖へ向けて北進展開しますが、進出した対馬東沖では、すでに県外巾着網船が主としてサバ漁に従事していて、26年には83統に上っていました。ところが、同年の秋漁からサバ巾着船が夜間に集魚灯操業を始め、好成績を収めたことから、夜間操業に転じて北進してきたイワシ操業船との紛争が激化することとなります。水揚の減退、価格の低迷により「揚繰不況」が深刻化する中で、戦後のイワシブームに便乗した形で進出した新規参入者がまず脱落していきます。昭和20年代後半から30年にかけては資本力に勝る底曳勢力も、揚繰網部門から全面撤退を余儀なくされます。それは地場企業も例外ではありませんでした。例えば、昭和23年に34統を数えた奈良尾の揚繰網統数は、27年に52統と増統していますが、昭和31年には39統へと減少してしまうのです。その原因としては、魚種交代説が有力ですが、魚群探知器の発達や無線機・綿糸魚網に代わる合成繊維魚網の開発など、漁業技術の改良進歩による乱獲説も一因に挙げられています。こうして「揚繰王国」は崩壊してしまうのですが、昭和27年12月20日、イワシ網不振緊急融資損失補償条例が制定されます。一方生き残った揚繰経営者は、漁船の大型化、高性能化に活路を求め、リスクを覚悟の上で、沖合いから遠洋へと漁場の開拓を行って出漁していきました。

  • 旋網漁業

    • 漁場の開拓
       本土沿岸から五島方面にかけてのイワシ漁が不振になると、遠洋に出漁するため漁船大型化の道を選んだ旋網船団は、漁獲が期待される海域への進出を図ります。その漁場として浮上してきのが韓国・済州島です。この海域で、昭和25年頃からサバのはね釣船が、5日ほどの操業で5000貫のサバを水揚げしたことに始まります。最盛期には操業船58隻、1ヶ月30万貫という記録もみられました。この盛漁をみて昭和27年頃には、旋網船団も済州島沖へと集中しますが、ここに1つの国際問題が起こってきます。昭和27年1月、韓国政府が発表した「海洋主権宣言」は、日本漁船拿捕へとつながる事件でした。これによって当海域での操業を始めたばかりの大型旋網、サバはね釣漁業は本県周辺から撤退し、大型旋網漁業は日本海、または中国東海岸へと新漁場を求めていくこととなります。李ライン問題は、業界にとってまったく理不尽な行為(民間自衛船まで出動させて公海自由の原則を貫こうとした)でありましたが、一方では、追いつめられた漁業者を何とかして守り通そうとする業界の意志と意地が結束して、遠洋旋網漁業の更なる興隆に結びついていくことにもなりました。東シナ海漁場は大正時代からトロール漁業、以西底曳網漁業によって開拓された大陸棚海域でありますが、浮魚資源は全く手つかずの処女海域でした。昭和25年(1950)に大洋漁業鰍フ米式巾着網がサバ漁を初めて操業、その有望性を見い出し、宮崎の漁船が魚釣島から済州島にかけて試験操業を行い、驚異的な成績を上げたため、東シナ海のサバ漁が衆目を集めることとなります。長崎県水産試験場は、昭和30年10月から旋網試験操業を始めます。昭和33年には東洋漁業の第3源福丸(230トン)が漁獲累計130万貫の好漁を記録したため、東シナ海が旋網の優秀漁場として浮上し、長崎県の旋網船団が出漁に踏み切ることとなるのです。

    • 海区制の導入
       
      イワシ対サバの紛争で漁場が緊迫しているとき、水産庁から海区制導入を含んだ「旋愛漁業暫定措置要綱」が発表されると、県内のイワシ揚繰網業界は絶対反対の激しい運動を展開します。水産庁は、昭和27年「旋網漁業取締規則」を公布し、これに基づいて「西部日本海海区特種旋網漁業調整方針」を定めて、この問題に決着をつけたのです。調整方針の骨子は、次のとおりです。
       1、知事許可制であった15トン〜60トンのアジ・サバ旋網漁業を大臣許可の指定中    型旋網漁業とする。
       2、西部日本海3海区を一体化して海区内の自由操業を認める1海区制の導入。
       3、許可船の夜間投網は時期を限って禁止する。
       県内の揚繰網業者は、イワシ漁に固執するあまり海区制の導入に猛反対しましたが、操業が長崎県海域に限られるイワシ操業での生産限界を感じ取っていた一部の船主層は、むしろこの制度改革を支持していたと思われる節がありました。漁獲の有無よりも操業海域を拡大して、脱イワシを図らなければ、経営の存立さえも危ぶまれる危機感を抱いていたのです。

    • 旋網漁業の崩壊
       イワシ漁の漁況は昭和24年と26年が豊漁年、昭和25年と27年が不漁年でありましたが、戦後初の不漁年に統制が廃止され、それに伴ってドッジ・デフレ政策が強行されたため、不漁年にもかかわらず魚価が崩落し、揚繰網経営は大打撃を蒙るのです。さらにタイミングの悪いことに、済州島周辺漁場では昭和25年の朝鮮戦争勃発によって、日本漁船の拿捕が相次ぎ、操業の危機が一挙に高まってくるのです。これに続く「鰮網漁業不振緊急融資損失補償条例」を公布し、さらに昭和28年には長崎県鰮網漁業振興対策委員会が、揚繰網漁業の産業転換、大型化の方針を打ち出して、揚繰網の再編を策定せざるを得なくなるほど深刻な社会問題となっていきます。

    • 魚市場水揚げも激減
       長崎魚市場へのイワシ水揚げは、網元搬入と買付運搬船搬入の2方式ですが、こちらも漁獲量に比例して、昭和29年から急激に減少しています。第15期の営業概況では「かつて見ない営業状態であったことは、誠に残念」と報告されています。長崎魚市場の水揚高を二分していた揚繰網漁業の決定的な不漁は、底曳網漁業の好況にもかかわらず、会社業績の低下を招く大きな原因ともなりました。

    • 揚繰の繁栄と崩壊
       今日の旋網漁業の原型であるイワシ網漁業は、大正から昭和初期にかけて、朝鮮半島の東海岸でのイワシ大漁によって沿岸漁業の先頭に立ち、朝鮮沿海の”ドル箱”と称されました。その技術的遺産を受け継ぎ、戦後再出発した長崎県下の旋網は、昭和22年の132統から、昭和27年には330統に達しました。当時、長崎県議会は、議員定数50人中17人が旋網業者であったということが、この頃の旋網漁業の隆盛を物語る一齣といえます。旋網漁業の急速な復興と戦後の統制、さらにインフレが、かつてない「揚繰繁栄」を生み出し、県下に「揚繰王国」を出現させたのでした。長崎魚市場では昭和27年1月30日、イワシの入荷が150トンに達し、1日の水揚量で戦後最高を記録するなど活況を呈しました。連日のように、イワシを満載した旋網船が魚市場岸壁から遠く大波止桟橋まで連なる光景は壮観でした。しかし、インフレ抑制のために実施されたドッジ経済政策と統制撤廃に歩調を合わせるかのようにイワシ漁は不振に陥っていきます。すなわち、漁獲の減退、イワシ価格の低迷によって「揚繰繁栄」から、一転して「揚繰不況」の到来で深刻化します。県下の旋網漁業を取り巻く資源状況の悪化に加え、経済情勢の急激な変化によって、戦後インフレによって築かれた「揚繰王国」は崩壊の道をたどることになります。

    • 東シナ海・黄海漁場の開拓
       長崎県旋網船団の大半が、「揚繰危機」を迎えた局面で、苦境を乗り切ることができないまま廃業したり、また遠洋漁場への転進の半ばで脱落しました。一方、このような厳しい試練を克服し、幾多の苦難と闘いながらも、漁場開発を続けた先駆者たちもいました。昭和30年4月、福宝水産株第3福宝丸(80トン級)船団が県水産試験場の鶴丸に同行、東シナ海に向かったが悪天候のために挫折。昭和31年にも他社船団とともに共同操業を試みたが失敗。東シナ海の漁場開発がいかに困難であったか、うかがい知ることができます。昭和31年8月、生月の東洋漁業鰍ェ東シナ海漁場へ試験操業船として超大型旋網船第81源福丸(234トン)を登場させ、同年10月、東海を目指しますが失敗、11月の第2次出漁で初めて東海漁場で投網、本格的な漁獲をみます。このとき高村福宝水産且ミ長が金子東洋漁業且ミ長に「80トン型を同行させてほしい」と申し入れたのは、新漁場での操業を急ぐ切迫した思いからでしょう。80トン型だけでは荒天の東シナ海は危険です。しかし大型船が控えていれば万一の場合、乗組員の収容はできると、第81源福丸を母船に見立てて安全操業を図ろうというものでした。水産庁の許可が出た昭和33年、福宝丸船団は源福丸に同行して出漁、好成績を収めたのです。漁場は農林462区のクチミノセ海域で、型の良いアジ主体の漁獲でした。これが東シナ海漁場操業の突破口となりました。

    • 高度成長下の遠洋旋網漁業
       昭和30年代は、長崎県の旋網漁業が東海・黄海での周年操業体制を整えて、遠洋漁業としての基礎を固め、そして発展させた時期に当たります。当時の西日本旋網のアジの漁獲量を見ると、昭和30年の12万トンから34年には21万トンに増加、漁場別の漁獲比率は済州島、東シナ海漁場が73%を占めました。遠洋漁場のアジ資源は予想以上の量でした。長崎・下関両市場で集中的に水揚げされたアジは、体長30〜40センチ級のハマチほどの大アジでした。加工原料になじまず、貯蔵のメリットも少なく、ただ鮮魚消費向けに限られるという、その当時は極めて用途のない魚でした。月夜間休漁日を除いて、連日のように大量入荷が続いた長崎魚市場では、午後8時から水揚作業を行い昼夜連続の作業もめずらしくありませんでした。魚函からはみ出るばかりの大アジが次々と積み上げられ、卸売り場を一面埋めつくしていく光景は見事でしたが、連日の大量入荷は鮮魚専用貨車の不足に加え、出荷先市場を飽和状態にするとともに、空前の価格下落をもたらすこととなりました。このように大アジの大量集中的水揚げによる価格暴落の事態を重視した日本遠洋旋網漁業協同組合は、昭和35年3月、臨時休業による生産調整を実施しました。しかし、この緊急措置は充分な効果を上げることができませんでした。昭和35年当時の旋網船は、80トン・340馬力が主力でしたが、年を追うごとに大型化、高馬力化が進み、競って重装備船となり、台湾、魚釣島近海まで出漁して操業海域を拡大しました。昭和40年代、旋網漁業も経済成長のなかで新しい展開を迎えます。昭和42年、大中型旋網船の上限トン数が111トンとなり新船建造が相次ぎます。水産庁による旋網の全体的検討の結果、111トン型、69トン型、19トン型と、それぞれモデル旋網船が設計され、その後の旋網漁業の基本船型となりました。

    • 遠洋旋網組合による水揚地づくり
       日本遠洋旋網漁業協同組合(遠旋)と遠旋企業は、漁獲物の流通対策として新たな水揚地市場を育成し、産地市場としての競争条件の整備に乗り出します。昭和32年、複数制魚市場となった唐津魚市場は、遠旋が積極的に育成をはかった産地市場でした。そのため唐津魚市場は、地域ぐるみのバックアップと旋網をはじめ流通加工関係企業等の誘致と協力を背景にして、旋網専用産地市場としての体制を確立し、取扱高を目覚ましく伸長させていきます。さらに、日本遠旋漁協は、昭和54年10月、松浦市に”生産者の魚市場”を開業します。この西日本魚市場の出現は、遠旋漁業にとって市場選択の幅を広げると共に、産地市場における遠旋漁獲物の集荷販売競争の活性化を促すことになりました。昭和37年、旋網全体の構造を改革する施策として、大中型旋網の自主減船が打ち出され、以後平成6年まで4次にわたる減船の結果、減船数は54統に達しました。平成8年の稼動統数は26社36統(内長崎県18社27統)で、昭和45年の89統から60%の大幅な減船となりました。平成8年、長崎県旋網漁協(野村稲穂組合長)がまとめた「大中型旋網減船影響調査報告書」によると、総水揚量に対し、1統当たりの水揚量は倍増、水揚金額でも経営効率の向上に貢献したと報告しています。しかし、外国からの水産物輸入の急増による魚価の低迷、漁労経費の高騰などが減船効果を相殺し、経営体を圧迫しているとも指摘しています。

    • 遠洋旋網漁業の現状
       長崎県旋網業界は、二度にわたる石油危機(昭和48年・54年)や200海里法実施など難局を乗り切り、成長型の設備投資を続けながら重装備船団によって魚群を追い求めてきました。やがて、遠洋旋網の漁獲組成に変化が現れます。マアジの漁獲減少と漁体の小型化です。昭和35年、遠旋漁業の漁獲量は32万トン余、このうちアジが28万トンで87%を占めていました。その後もアジの連続的な大量水揚げは続きましたが、間もなく急速な漁獲減少に見舞われます。昭和45年、7万トンに激減して以後6万トンから1213万トンの間を波動的に変動しながら、漁獲量の首位の座をサバに譲っていきます。平成元年から8年までの日本遠旋漁協傘下組合員の漁獲量は平均33万トン、うちアジ類は12万トン弱ですが小型魚の割合が多くなっています。以前は獲れていたサワラなどの高価格魚の漁獲が振るわず、また型の良いアジ、サバ、減り、もっぱら加工原料や養殖魚の餌料向けの魚種、サイズのものが増えています。平成8年、低調傾向にあった遠旋業界が久々に沸きました。例年より2ヶ月半も早い9月下旬から済州島沖のサバ漁が始まったのです。サバの豊漁は年末まで続き、22年ぶりの記録を更新しました。九州各産地市場は氷、魚函の供給が追いつかない状態で、止むなく遠旋組合は平成8年12月に入り、3回に及ぶ7日間の臨時休漁を実施して、冷凍保管及び価格の調整をはかりました。沈滞気味の業界にとって、このサバの豊漁は久しぶりに訪れた明るい話題となりました。

    • 国連海洋法条約と遠洋旋網漁業
       
      平成8年7月20日、日本でも12海里領海、200海里排他的経済水域などを定めた国連海洋法条約実施協定が発効しました。「新海洋法時代」の幕開けです。親和銀行本店調査部によると、「相互入漁が認められず経済水域が中間線で設定された場合、遠旋漁業の操業可能水域は38%に縮小、漁獲量は38%、生産額は42%減少します。また、関連産業は最大約286億円の損失となり、約3800人の雇用に影響が出る」と試算されています。このような危機感を背景にして、遠旋業界としては長崎県を始め関係自治体、関連業界とともに、中国、韓国専管水域との相互入漁による既得権益TAC(漁獲量制限)の確保を強く求めています。なお、条約では200海里排他水域の中の魚種ごとの総漁獲許容量が定められ、資源管理が義務づけられます。漁場資源荒廃の進行に歯止めをかけ、限りある資源を継続的にどのように再生産して利用するか・・・・・・漁業は新しい時代に入ったのです。

    • 遠洋旋網漁業、単船操業の試み
       日本海洋水産資源開発センターでは、新操業形態開発実証化事業の一環として、平成5年度より単船式旋網漁船(平成丸・965トン)を用船し、長崎を根拠地として東シナ海、黄海漁場(日中、日韓漁業協定に基づく規制水域を除く)で実操業を行っています。これは、現行の遠旋漁業の5隻50人体制からなる1船団操業方式から、2隻25人体制への移行を目指し、その実効性を調査しているものです。平成丸による単船旋網操業の技術水準も漸次向上し、漁獲量も年を追うごとに増加しています。しかい東シナ海、黄海漁場での採算ベースに到達するためには、さらに漁獲能力の増強や操業効率の向上などが求められます。平成丸の新操業形態開発実証化事業は、200海里経済水域の設定、総量規制など危機に立つ水産業界にとて、遠旋漁業再編の切り札として大きな期待が寄せえられています。いま旋網業界は、幾多の苦難を乗り越え築き上げた旋網漁業の安定化のために、総力をあげて厳しい現状打開に立ち向かっています。

    • 長崎魚市場における大中型旋網の水揚状況
       平成元年から8年までの年間水揚平均は、数量2万9600トン強、金額38億円弱です。総漁獲比では、数量9%、金額8%の水揚状況です。なお、旋網物の取扱いの中で、大中型旋網が占める割合は、数量で56%、金額で50%となっています。

    • 中小型旋網の経営と統数
       経営体は昭和58年に比べると59年103%、平成5年91%、10年間で12%減少しました。統数は同じく123統から99統となっており、24統(20%)の減少となっています。漁獲量は昭和59〜61年は20万トン未満でしたが、その後20〜24万トンの範囲で推移しています。なお、全国漁獲量に占める長崎県の漁獲割合は、昭和59年の17%から平成5年は28%に上昇しています。漁獲金額は、昭和61〜平成5年まで130〜145億円で推移しています。

    • 中小型旋網業界にみられる事業展開
       中小型旋網漁業は、資源の減少、魚種組成の変化など多くの難問を抱えています。さらに国連海洋法の発効で、それに伴う新制度の施行が予定され、大きな転換期を迎えようとしています。その中にあって、旋網経営の将来像を考える場合のモデルケースとして評価されているものに、旋網漁獲物の活漁化があります。この旋網企業は、改良運搬船や海上生簀などの導入によって、最も難しいとされる旋網ものアジの活漁化に成功し”ごんあじ”と命名され需要が拡大しつつあります。現在、95〜98%の歩留を達成し、数年にわたる企業努力を結実させています。これは五島灘で獲れた良質の大中型アジで、大分県佐賀ノ関”関アジ”に対抗し得るものとして、長崎県産としてブランド化をすすめています。さらに、幅広い集荷販売を視野に入れた活漁流通範囲の拡大をも展望しています。平成8年、長崎県旋網漁協は県下中小型旋網漁業の現状分析とともに、その未来像、再編課題について調査報告書を作成しました。報告書では、「漁獲量、金額ともに安定しているが、平均価格は魚体の小型化、輸入水産物の増加などによって価格は低迷している」として、対象魚種に合わせた経営戦略の必要性をあげています。輸入水産物についての対応策としては、「輸入青物が増加しているのは加工品または加工原料であり、鮮魚ましてや活漁ではない。輸入物と格差をつけるためには、鮮度重視といった対応が必要となるだろう。しかし鮮度を重視してもそれだけ価格があがるわけではなく、活漁市場にも限度がある。いかに付加価値を見つけていくかが重要であり、その方向しか道はない」と指摘しています。

    • 長崎魚市場における中小型旋網の水揚状況
       平成元年から8年までの年間水揚平均は、数量で約2万トン、金額は30億円強です。なお、旋網物取扱の中で中小型旋網が占める割合は、8年間平均で数量38%、金額は41%となっており増加傾向にあります。特に、平成7,8年は、大中型旋網を上回る水揚金額を上げており順調です。

  • 沿岸漁業

    •  長崎県は豊かな漁業資源のもとで、歴史的にさまざまな漁法が発達してきました。特に東シナ海・黄海という世界有数の底魚漁場に隣接することで、沿岸業業はもとより沖合、遠洋漁業が発展してきました。沿岸漁業では、主に中・小型旋網、 小型底曳網、刺し網、延縄、イカ釣り、一本釣り、定置網、地曳き網など多種多様 の漁業が行われ、戦後の極端な食糧難の時代でも、動物性たん白質の供給源と して戦災復興に大きく貢献してきました。戦後における本県の漁業は、第2次世界 大戦によって壊滅的な打撃を受け、漁獲量も昭和21年には12万8000トンと、戦前 (昭和16年・31万3000トン)に比べ三分の一に激減しました。しかし、このような歴 史的背景を持ちながら、当時は石炭と並ぶ基幹産業として急速に復興し、昭和2 年には35万8000トンと戦前の漁獲量を上回り、28年には59万トンと飛躍的に増加  ていきます。これは戦時中の休漁状態による資源の回復と、マイワシの豊漁によるものでした。昭和20年代に入ると、マイワシの不漁により、その勢いはやや減少し ました。昭和34年には再び40万トンと増加し、46年は70万トン、53年には90万トンの 大台を超え、翌54年には本県総漁獲量のピークとなった99万1000トンと100万トン台に迫ってきます。戦後は、本県の漁獲量のうち、イワシ、アジ、サバ類の占める割 合が高く、昭和30年代の30〜40%を除けば、常に50%以上の割合を占めていました。特に、昭和50年代によると、一時減少していたマイワシが増加しはじめ、昭和 57年には総漁獲量83万トンのうちの70%を占めるまでになりました。

    • 沿岸漁業の動向
       戦後、本県の沿岸漁業を代表するのはイワシ漁業でした。昭和20年代には、イワシの魚群は沿岸近くまで来ており、小型巾着網でも漁に出れば必ず大漁できた時代で、県下の総漁獲量の30〜40%は常にイワシが占めていました。西彼杵郡の野母、椛島、脇岬などの沿岸海域は好漁場に恵まれていたことから、古くから漁業に依存してきました。特に戦後はイワシ旋網の基地となり、最盛期には60統の旋網船団が当地区を基地として活動し、空前のイワシブームとなりました。しかし、イワシによる沿岸旋網の景気も長くは続かず、漁獲量は昭和27年から減少傾向となり、イワシは長崎の沿岸から次第に姿を消していくことになります。その波及は、沿岸漁業者の倒産から漁業協同組合の運営にまで大きな衝撃を与えました。戦後における長崎県の遠洋・沖合・沿岸漁業の推移(県水産統計年表)によると、沿岸漁業は昭和27年、沖合漁業は昭和28年をピークに漁獲量は漸次減少しています。それは揚繰網、磯建網の不振が最大の要因です。揚繰網漁業ではイワシは昭和26年以降、サバは28年以降、アジは30年以降、逓減の方向をたどっています。さらに定置網漁業においては、昭和28年以後、沿岸漁業の主体である延縄、一本釣漁業では、延縄が昭和29年、イカ一本釣は昭和25年、その他の一本釣りでは昭和28年以後、いずれもその漁獲高は減少しています(長崎県水試資料第150号)。

    • 漁船の大型化
       長崎県の漁業は、漁船漁業を中心とする沿岸漁業が主体であり、昭和37年を境にして、無動力船、地曳き網は急速に減少しました。無動力船クラスは昭和38年の5892隻から、昭和57年には119隻に減少しほとんど姿を消しています。これに代わって、漁船の動力化は急速に進み、3トン未満クラスは昭和48年をピークに漸減し、より規模が大きい階層が増加します。沿岸漁業の漁獲量も漁船規模の拡大にともなって、昭和43年に13万1000トンを記録するまで年々増加しましたが、その後は減少に転じ10万トン台で推移してきました。昭和50年代に入ると、マイワシの豊漁により11〜12万トン台に回復したものの再び減少しました。沿岸資源の減少が著しくなった昭和32年頃から、さらに漁船の大型化が進み、漁場は沖合へと移行していきます。漁業界では「沿岸より沖合へ、沖合より遠洋へ」というスローガンが合言葉となりました。

  • 沖合漁業

    •  漁船の大型化による新漁場への進出、そして近代的な装備による漁場の開拓、これが昭和39年から始まる一本釣漁業の最盛期を招くことになります。昭和40年4月、西彼杵郡の野母、脇岬、椛島、高浜の旧4漁協が合併し、野母崎町漁協として県下でも屈指の大型漁協が誕生しました。新組合の誕生を契機として、漁場の転換を施策し一本釣漁場へと移行、脇岬を中心とした一本釣漁船は沿岸から沖合へと漁場を拡大していきます。これに伴い漁船の大型化によって50トン級の大型一本釣漁船も出現し、遠く台湾以南まで出漁し脚光を浴びるなど、沖合・遠洋漁業に活路を求めました。野母崎町漁協では、漁船の規模拡大と平行して漁獲量も順調に増加しましたが、昭和43年をピークに漸次漁獲にかげりが見え始め、全盛当時50隻だった大・中型一本釣漁船も年毎に減り続け、現在(平成8年)は中型一本釣漁船5隻が操業しており、当時脚光を浴びた沖合遠洋漁業の衰退がうかがえるのです。

    • サバはね釣漁業
       当社取扱った近海物(沿岸、沖合物)の多種目漁業の中で、その盛衰が顕著な動きをした漁業が、昭和26年のサバはね釣漁業でした。この漁業は、当時県下においては僅少の存在でしたが、千葉、静岡の漁船が驚異的な水揚げを行ったことに始まります。長崎魚市場には、昭和26年の8月から長崎を根拠地として済州島海域で操業した、静岡、鹿児島、宮崎、愛媛など、県外からのサバはね釣漁船が入港し、8月以降12月までの5ヵ月間で3634トン(401隻)の水揚げがありました。その後の水揚げも順調で、昭和27年は984トン(1283隻)と大幅に増加したものの、昭和28年、韓国による李ライン漁船拿捕事件により、済州島海域への出漁が不能となったため壊滅の悲運に見舞われ、同年は3161トン(552隻)と前年の30%の水揚げにとどまりました。その後は、1000トン台で推移しますが、昭和31年末頃、南方海上魚釣島北北東の海域周辺に優秀な漁場が発見されたため、サバはね釣漁業も息を吹き返し、本県船はもとより、初出漁の茨城県、福島県をはじめ県外船の水揚げが急激に増加したことで、昭和32年の水揚高は9145トン(310隻)、33年は1万6415トン(717隻)、取扱金額で6億3700万円となり、数量、金額とも急増し過去最高を記録しました。しかし、翌34年には3662トン(264隻)と激減し、35年659トン(52隻)、36年は僅か6トン(1隻)の水揚げを最後に、昭和26年から始まったサバはね釣漁業も11年目にして衰退してしまいました。

    • 甘延縄漁業
       昭和30年代後半に入り、長崎魚市場に水揚げされた遠洋・沖合物の中で、特筆すべき漁業は、山口県の遠洋延縄漁船段の入港でした。特に、萩市玉江浦、越ヶ浜の延縄漁業は、長い年月にわたって長崎魚市鰍フ業績向上に多大な功績を残した漁業です。遠洋延縄漁船団は、タイ、連子タイ、アマダイ、イカなどが水揚高の大半を占め、東シナ海、黄海に最短距離にある長崎漁港を中心基地として水揚げし活況を呈してきました。しかし昭和27年、韓国政府が一方的に李ラインを設定したため、これまでの延縄漁場はかなり縮小され、拿捕事件が頻発しました。これにより山口県の延縄漁船は合計20隻も拿捕されるに至りました。こうして韓国沿岸から完全に締め出された延縄船団は、新漁場を求めて東シナ海を次第に南下し、昭和32年には台湾近くまで漁場を拡大していきます。この頃から、連子ダイ、赤アマダイ、白アマダイの好漁が続き、出漁船も玉江浦と越ヶ浜を中心に増加し、漁船も20〜30トンに大型化されていきました。昭和40年、李ラインが撤廃されると、さっそく越ヶ浜船団は黄海に出漁して、フグ漁場を開発し、アマダイ延縄と延縄の過半期分業化が進むようになりました。

    • 延縄船団の盛衰
       昭和40年代の山口県の延縄漁船隻数は220隻で、これに他漁船団(島根県波根漁船団、山口県通漁協船団)なども加わり、アマダイ、フグ延縄漁業の黄金時代へと発展していくことになります。漁船も30〜40トン級が主体となり、エンジンは焼玉からディーゼルに進化、昭和50年代には59トン型が建造されるまでに至りました。しかし、漁船の増加と漁獲性能の向上は乱獲につながり、隆盛を極めた延縄漁業は、フグ漁が昭和44年、アマダイ漁は45年を頂点として、衰退の一途を辿ることになります。山口県漁船団によるアマダイ類の年別漁獲量を見ると、漁獲漁が増加しはじめたのは昭和32年からで、昭和45年にアマダイ1万2000トンを記録するまでに至りました。しかし、その後は減少傾向を示し、昭和53年には5000トンまで落ち込みました。その後は若干回復したものの、依然として資源は低い水準にありました。遠洋延縄漁業の動向として出漁漁船数を見ると、昭和40〜45年の盛漁期には、玉江浦で80隻、越ヶ浜で103隻が操業していました。それが平成2年には玉江浦で42隻と半分に減り、平成8年の現在で2隻だけの操業船となっています。一方、越ヶ浜も平成8年で36隻となり、これまでに67隻が廃業しています。このように漁業環境の悪化が顕著に現れた原因として、中国・韓国など諸外国の漁船の増加による漁場の競合で、漁場が狭隘となり漁獲が減少、さらには漁船員の不足という事態ともなり、年々廃業が相次ぎました。水揚高も平成元年4700トン、2年4200とん、3年3200トンと減少し続け、平成7年には1000トンにまでに落ち込み、水揚高の衰退が目立ちました。

  • 定置網漁業

    •  定置網漁業は一定の水面下に網を敷設して、魚群の習性を利用して採捕する漁 業で、対象魚はブリ、イワシ、アジ、サバが大半を占め、イカ類もまたこれによって 水揚げされます。県内の定置網漁業は、海流の関係から豊富な魚類に恵まれた壱岐、対馬、五島列島に集中しており、定置網漁獲物のなかでもブリは主要魚に位置づけられてきました。

    • 長崎県のブリ漁法
      ブリ漁法は定置網の他、旋網、石巻、延縄、飼付漁業と多岐にわたり、12月から6月までを漁期として操業されていますが、なかでも対馬の豆酘瀬、下五島の崎山、富江のブリ飼付は、三井楽の定置網と共に、古い歴史とずば抜けた漁獲量で有名でした。

    • 経営体系
       戦前の漁場経営は、地元漁業者の単独か、あるいは県外漁業資本との共同経営方式がとられていました。共同経営方式は、参加企業が漁場開発、漁労技術の改良、漁獲物販売などと共に漁場経営面においても啓発的役割を果たしましたが、企業側も共同漁業権を得ることによって、地域での発言権と容易な市場出荷を可能とすることができる仕組みになっていました。その代表的な企業が大洋漁業鰍ナした。関係した五島地区のブリ漁場は、三井楽赤瀬1号・2号・3号(高崎)漁場、岐宿立小島漁場、玉ノ浦黒瀬漁漁場などで、ほぼ下五島地区の主要漁場に漁業権を行使していました。第2次大戦終結後の昭和24年11月、新漁業法が制定されると、定置網漁業権の去就を巡って、地元漁協との間に漁業権開放闘争が繰りひろげられ、資本漁業は漁場経営から完全に撤退することになります。

    • 戦後の定置網漁業
       定置網漁業も他の漁業と同様、戦時中の悪条件に禍いされて、昭和22年度の水揚高は976万4000貫と、戦前の水揚高1500万貫に比べると著しく減少しています。昭和23年度は、ようやく漁業環境も整って全国的な大漁に恵まれ長崎県沿岸の定置網漁業も活況を呈しました。

    • 新漁業法と漁業権
      戦後の定置網漁業の特徴は、昭和24年2月15日施行の「水産業協同組合法」(水協法)、昭和25年3月1日施行の「漁業法」によって、慣行あるいは権利の移譲貸与形式で、制度改革前まで長く経営を続けてきた地区外業者が持つ漁業権の去就を巡る争いでした。この旧漁業権者に対しては、新漁業法の補償規定によって既得権は白紙に戻ったとされましたが、関係漁業者であるということでは、依然として当該漁場に対する免許申請者の有資格者でもありました。また地元漁民、漁業では待望久しかった免許申請、漁業権獲得に絶好の機会でした。

    • 漁業権を巡る争い
       この時期の事情について、長崎県漁連編集の『30年のあゆみ』文中で、「その競合出願は、優れた漁場、いやそれ以上に地区外業者との間で、相反目して双方譲るところを知らなかった。旧経営者は、その漁場に対する長期の投資や経験を主張したのに対し、地元地区は、これは我々地元漁民に与えられた天恵の漁場であり、実質的な操業はすべて我々の提供労務そのものであると強く反発した。特に長崎県の特殊性は、大洋漁業鰍ェ北は対馬から南は五島を経て女島沿岸まで各所でブリ定置網漁業の経営を続けてきたことにありました。制度改革後も有望漁場の免許申請を行い、地元との係争に発展した。それが会社の事情であったとしても漁業法第13条の『不当な集中』という解釈が成り立った点であろう。ともあれ長崎県での漁業権取得を巡る漁場開放闘争は、旧漁業権者との関係で、中でも大洋漁業株との競願地区での闘争は熾烈を極めた」(要旨)と述べています。

    • 経営権の去就
       定置網漁業のドル箱的存在であったブリ定置網の漁業権は、漸時地元漁協に移行し、大洋漁業鰍ネどの地区外業者及び個人経営者は、単独経営者の地位を去って行かざるを得ませんでした。


 

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