-
漁場の開拓
本土沿岸から五島方面にかけてのイワシ漁が不振になると、遠洋に出漁するため漁船大型化の道を選んだ旋網船団は、漁獲が期待される海域への進出を図ります。その漁場として浮上してきのが韓国・済州島です。この海域で、昭和25年頃からサバのはね釣船が、5日ほどの操業で5000貫のサバを水揚げしたことに始まります。最盛期には操業船58隻、1ヶ月30万貫という記録もみられました。この盛漁をみて昭和27年頃には、旋網船団も済州島沖へと集中しますが、ここに1つの国際問題が起こってきます。昭和27年1月、韓国政府が発表した「海洋主権宣言」は、日本漁船拿捕へとつながる事件でした。これによって当海域での操業を始めたばかりの大型旋網、サバはね釣漁業は本県周辺から撤退し、大型旋網漁業は日本海、または中国東海岸へと新漁場を求めていくこととなります。李ライン問題は、業界にとってまったく理不尽な行為(民間自衛船まで出動させて公海自由の原則を貫こうとした)でありましたが、一方では、追いつめられた漁業者を何とかして守り通そうとする業界の意志と意地が結束して、遠洋旋網漁業の更なる興隆に結びついていくことにもなりました。東シナ海漁場は大正時代からトロール漁業、以西底曳網漁業によって開拓された大陸棚海域でありますが、浮魚資源は全く手つかずの処女海域でした。昭和25年(1950)に大洋漁業鰍フ米式巾着網がサバ漁を初めて操業、その有望性を見い出し、宮崎の漁船が魚釣島から済州島にかけて試験操業を行い、驚異的な成績を上げたため、東シナ海のサバ漁が衆目を集めることとなります。長崎県水産試験場は、昭和30年10月から旋網試験操業を始めます。昭和33年には東洋漁業の第3源福丸(230トン)が漁獲累計130万貫の好漁を記録したため、東シナ海が旋網の優秀漁場として浮上し、長崎県の旋網船団が出漁に踏み切ることとなるのです。
-
海区制の導入
イワシ対サバの紛争で漁場が緊迫しているとき、水産庁から海区制導入を含んだ「旋愛漁業暫定措置要綱」が発表されると、県内のイワシ揚繰網業界は絶対反対の激しい運動を展開します。水産庁は、昭和27年「旋網漁業取締規則」を公布し、これに基づいて「西部日本海海区特種旋網漁業調整方針」を定めて、この問題に決着をつけたのです。調整方針の骨子は、次のとおりです。
1、知事許可制であった15トン〜60トンのアジ・サバ旋網漁業を大臣許可の指定中
型旋網漁業とする。
2、西部日本海3海区を一体化して海区内の自由操業を認める1海区制の導入。
3、許可船の夜間投網は時期を限って禁止する。
県内の揚繰網業者は、イワシ漁に固執するあまり海区制の導入に猛反対しましたが、操業が長崎県海域に限られるイワシ操業での生産限界を感じ取っていた一部の船主層は、むしろこの制度改革を支持していたと思われる節がありました。漁獲の有無よりも操業海域を拡大して、脱イワシを図らなければ、経営の存立さえも危ぶまれる危機感を抱いていたのです。
-
旋網漁業の崩壊
イワシ漁の漁況は昭和24年と26年が豊漁年、昭和25年と27年が不漁年でありましたが、戦後初の不漁年に統制が廃止され、それに伴ってドッジ・デフレ政策が強行されたため、不漁年にもかかわらず魚価が崩落し、揚繰網経営は大打撃を蒙るのです。さらにタイミングの悪いことに、済州島周辺漁場では昭和25年の朝鮮戦争勃発によって、日本漁船の拿捕が相次ぎ、操業の危機が一挙に高まってくるのです。これに続く「鰮網漁業不振緊急融資損失補償条例」を公布し、さらに昭和28年には長崎県鰮網漁業振興対策委員会が、揚繰網漁業の産業転換、大型化の方針を打ち出して、揚繰網の再編を策定せざるを得なくなるほど深刻な社会問題となっていきます。
-
魚市場水揚げも激減
長崎魚市場へのイワシ水揚げは、網元搬入と買付運搬船搬入の2方式ですが、こちらも漁獲量に比例して、昭和29年から急激に減少しています。第15期の営業概況では「かつて見ない営業状態であったことは、誠に残念」と報告されています。長崎魚市場の水揚高を二分していた揚繰網漁業の決定的な不漁は、底曳網漁業の好況にもかかわらず、会社業績の低下を招く大きな原因ともなりました。
-
揚繰の繁栄と崩壊
今日の旋網漁業の原型であるイワシ網漁業は、大正から昭和初期にかけて、朝鮮半島の東海岸でのイワシ大漁によって沿岸漁業の先頭に立ち、朝鮮沿海の”ドル箱”と称されました。その技術的遺産を受け継ぎ、戦後再出発した長崎県下の旋網は、昭和22年の132統から、昭和27年には330統に達しました。当時、長崎県議会は、議員定数50人中17人が旋網業者であったということが、この頃の旋網漁業の隆盛を物語る一齣といえます。旋網漁業の急速な復興と戦後の統制、さらにインフレが、かつてない「揚繰繁栄」を生み出し、県下に「揚繰王国」を出現させたのでした。長崎魚市場では昭和27年1月30日、イワシの入荷が150トンに達し、1日の水揚量で戦後最高を記録するなど活況を呈しました。連日のように、イワシを満載した旋網船が魚市場岸壁から遠く大波止桟橋まで連なる光景は壮観でした。しかし、インフレ抑制のために実施されたドッジ経済政策と統制撤廃に歩調を合わせるかのようにイワシ漁は不振に陥っていきます。すなわち、漁獲の減退、イワシ価格の低迷によって「揚繰繁栄」から、一転して「揚繰不況」の到来で深刻化します。県下の旋網漁業を取り巻く資源状況の悪化に加え、経済情勢の急激な変化によって、戦後インフレによって築かれた「揚繰王国」は崩壊の道をたどることになります。
東シナ海・黄海漁場の開拓
長崎県旋網船団の大半が、「揚繰危機」を迎えた局面で、苦境を乗り切ることができないまま廃業したり、また遠洋漁場への転進の半ばで脱落しました。一方、このような厳しい試練を克服し、幾多の苦難と闘いながらも、漁場開発を続けた先駆者たちもいました。昭和30年4月、福宝水産株第3福宝丸(80トン級)船団が県水産試験場の鶴丸に同行、東シナ海に向かったが悪天候のために挫折。昭和31年にも他社船団とともに共同操業を試みたが失敗。東シナ海の漁場開発がいかに困難であったか、うかがい知ることができます。昭和31年8月、生月の東洋漁業鰍ェ東シナ海漁場へ試験操業船として超大型旋網船第81源福丸(234トン)を登場させ、同年10月、東海を目指しますが失敗、11月の第2次出漁で初めて東海漁場で投網、本格的な漁獲をみます。このとき高村福宝水産且ミ長が金子東洋漁業且ミ長に「80トン型を同行させてほしい」と申し入れたのは、新漁場での操業を急ぐ切迫した思いからでしょう。80トン型だけでは荒天の東シナ海は危険です。しかし大型船が控えていれば万一の場合、乗組員の収容はできると、第81源福丸を母船に見立てて安全操業を図ろうというものでした。水産庁の許可が出た昭和33年、福宝丸船団は源福丸に同行して出漁、好成績を収めたのです。漁場は農林462区のクチミノセ海域で、型の良いアジ主体の漁獲でした。これが東シナ海漁場操業の突破口となりました。
高度成長下の遠洋旋網漁業
昭和30年代は、長崎県の旋網漁業が東海・黄海での周年操業体制を整えて、遠洋漁業としての基礎を固め、そして発展させた時期に当たります。当時の西日本旋網のアジの漁獲量を見ると、昭和30年の12万トンから34年には21万トンに増加、漁場別の漁獲比率は済州島、東シナ海漁場が73%を占めました。遠洋漁場のアジ資源は予想以上の量でした。長崎・下関両市場で集中的に水揚げされたアジは、体長30〜40センチ級のハマチほどの大アジでした。加工原料になじまず、貯蔵のメリットも少なく、ただ鮮魚消費向けに限られるという、その当時は極めて用途のない魚でした。月夜間休漁日を除いて、連日のように大量入荷が続いた長崎魚市場では、午後8時から水揚作業を行い昼夜連続の作業もめずらしくありませんでした。魚函からはみ出るばかりの大アジが次々と積み上げられ、卸売り場を一面埋めつくしていく光景は見事でしたが、連日の大量入荷は鮮魚専用貨車の不足に加え、出荷先市場を飽和状態にするとともに、空前の価格下落をもたらすこととなりました。このように大アジの大量集中的水揚げによる価格暴落の事態を重視した日本遠洋旋網漁業協同組合は、昭和35年3月、臨時休業による生産調整を実施しました。しかし、この緊急措置は充分な効果を上げることができませんでした。昭和35年当時の旋網船は、80トン・340馬力が主力でしたが、年を追うごとに大型化、高馬力化が進み、競って重装備船となり、台湾、魚釣島近海まで出漁して操業海域を拡大しました。昭和40年代、旋網漁業も経済成長のなかで新しい展開を迎えます。昭和42年、大中型旋網船の上限トン数が111トンとなり新船建造が相次ぎます。水産庁による旋網の全体的検討の結果、111トン型、69トン型、19トン型と、それぞれモデル旋網船が設計され、その後の旋網漁業の基本船型となりました。
遠洋旋網組合による水揚地づくり
日本遠洋旋網漁業協同組合(遠旋)と遠旋企業は、漁獲物の流通対策として新たな水揚地市場を育成し、産地市場としての競争条件の整備に乗り出します。昭和32年、複数制魚市場となった唐津魚市場は、遠旋が積極的に育成をはかった産地市場でした。そのため唐津魚市場は、地域ぐるみのバックアップと旋網をはじめ流通加工関係企業等の誘致と協力を背景にして、旋網専用産地市場としての体制を確立し、取扱高を目覚ましく伸長させていきます。さらに、日本遠旋漁協は、昭和54年10月、松浦市に”生産者の魚市場”を開業します。この西日本魚市場の出現は、遠旋漁業にとって市場選択の幅を広げると共に、産地市場における遠旋漁獲物の集荷販売競争の活性化を促すことになりました。昭和37年、旋網全体の構造を改革する施策として、大中型旋網の自主減船が打ち出され、以後平成6年まで4次にわたる減船の結果、減船数は54統に達しました。平成8年の稼動統数は26社36統(内長崎県18社27統)で、昭和45年の89統から60%の大幅な減船となりました。平成8年、長崎県旋網漁協(野村稲穂組合長)がまとめた「大中型旋網減船影響調査報告書」によると、総水揚量に対し、1統当たりの水揚量は倍増、水揚金額でも経営効率の向上に貢献したと報告しています。しかし、外国からの水産物輸入の急増による魚価の低迷、漁労経費の高騰などが減船効果を相殺し、経営体を圧迫しているとも指摘しています。
遠洋旋網漁業の現状
長崎県旋網業界は、二度にわたる石油危機(昭和48年・54年)や200海里法実施など難局を乗り切り、成長型の設備投資を続けながら重装備船団によって魚群を追い求めてきました。やがて、遠洋旋網の漁獲組成に変化が現れます。マアジの漁獲減少と漁体の小型化です。昭和35年、遠旋漁業の漁獲量は32万トン余、このうちアジが28万トンで87%を占めていました。その後もアジの連続的な大量水揚げは続きましたが、間もなく急速な漁獲減少に見舞われます。昭和45年、7万トンに激減して以後6万トンから1213万トンの間を波動的に変動しながら、漁獲量の首位の座をサバに譲っていきます。平成元年から8年までの日本遠旋漁協傘下組合員の漁獲量は平均33万トン、うちアジ類は12万トン弱ですが小型魚の割合が多くなっています。以前は獲れていたサワラなどの高価格魚の漁獲が振るわず、また型の良いアジ、サバ、減り、もっぱら加工原料や養殖魚の餌料向けの魚種、サイズのものが増えています。平成8年、低調傾向にあった遠旋業界が久々に沸きました。例年より2ヶ月半も早い9月下旬から済州島沖のサバ漁が始まったのです。サバの豊漁は年末まで続き、22年ぶりの記録を更新しました。九州各産地市場は氷、魚函の供給が追いつかない状態で、止むなく遠旋組合は平成8年12月に入り、3回に及ぶ7日間の臨時休漁を実施して、冷凍保管及び価格の調整をはかりました。沈滞気味の業界にとって、このサバの豊漁は久しぶりに訪れた明るい話題となりました。
国連海洋法条約と遠洋旋網漁業
平成8年7月20日、日本でも12海里領海、200海里排他的経済水域などを定めた国連海洋法条約実施協定が発効しました。「新海洋法時代」の幕開けです。親和銀行本店調査部によると、「相互入漁が認められず経済水域が中間線で設定された場合、遠旋漁業の操業可能水域は38%に縮小、漁獲量は38%、生産額は42%減少します。また、関連産業は最大約286億円の損失となり、約3800人の雇用に影響が出る」と試算されています。このような危機感を背景にして、遠旋業界としては長崎県を始め関係自治体、関連業界とともに、中国、韓国専管水域との相互入漁による既得権益TAC(漁獲量制限)の確保を強く求めています。なお、条約では200海里排他水域の中の魚種ごとの総漁獲許容量が定められ、資源管理が義務づけられます。漁場資源荒廃の進行に歯止めをかけ、限りある資源を継続的にどのように再生産して利用するか・・・・・・漁業は新しい時代に入ったのです。
遠洋旋網漁業、単船操業の試み
日本海洋水産資源開発センターでは、新操業形態開発実証化事業の一環として、平成5年度より単船式旋網漁船(平成丸・965トン)を用船し、長崎を根拠地として東シナ海、黄海漁場(日中、日韓漁業協定に基づく規制水域を除く)で実操業を行っています。これは、現行の遠旋漁業の5隻50人体制からなる1船団操業方式から、2隻25人体制への移行を目指し、その実効性を調査しているものです。平成丸による単船旋網操業の技術水準も漸次向上し、漁獲量も年を追うごとに増加しています。しかい東シナ海、黄海漁場での採算ベースに到達するためには、さらに漁獲能力の増強や操業効率の向上などが求められます。平成丸の新操業形態開発実証化事業は、200海里経済水域の設定、総量規制など危機に立つ水産業界にとて、遠旋漁業再編の切り札として大きな期待が寄せえられています。いま旋網業界は、幾多の苦難を乗り越え築き上げた旋網漁業の安定化のために、総力をあげて厳しい現状打開に立ち向かっています。
長崎魚市場における大中型旋網の水揚状況
平成元年から8年までの年間水揚平均は、数量2万9600トン強、金額38億円弱です。総漁獲比では、数量9%、金額8%の水揚状況です。なお、旋網物の取扱いの中で、大中型旋網が占める割合は、数量で56%、金額で50%となっています。
中小型旋網の経営と統数
経営体は昭和58年に比べると59年103%、平成5年91%、10年間で12%減少しました。統数は同じく123統から99統となっており、24統(20%)の減少となっています。漁獲量は昭和59〜61年は20万トン未満でしたが、その後20〜24万トンの範囲で推移しています。なお、全国漁獲量に占める長崎県の漁獲割合は、昭和59年の17%から平成5年は28%に上昇しています。漁獲金額は、昭和61〜平成5年まで130〜145億円で推移しています。
中小型旋網業界にみられる事業展開
中小型旋網漁業は、資源の減少、魚種組成の変化など多くの難問を抱えています。さらに国連海洋法の発効で、それに伴う新制度の施行が予定され、大きな転換期を迎えようとしています。その中にあって、旋網経営の将来像を考える場合のモデルケースとして評価されているものに、旋網漁獲物の活漁化があります。この旋網企業は、改良運搬船や海上生簀などの導入によって、最も難しいとされる旋網ものアジの活漁化に成功し”ごんあじ”と命名され需要が拡大しつつあります。現在、95〜98%の歩留を達成し、数年にわたる企業努力を結実させています。これは五島灘で獲れた良質の大中型アジで、大分県佐賀ノ関”関アジ”に対抗し得るものとして、長崎県産としてブランド化をすすめています。さらに、幅広い集荷販売を視野に入れた活漁流通範囲の拡大をも展望しています。平成8年、長崎県旋網漁協は県下中小型旋網漁業の現状分析とともに、その未来像、再編課題について調査報告書を作成しました。報告書では、「漁獲量、金額ともに安定しているが、平均価格は魚体の小型化、輸入水産物の増加などによって価格は低迷している」として、対象魚種に合わせた経営戦略の必要性をあげています。輸入水産物についての対応策としては、「輸入青物が増加しているのは加工品または加工原料であり、鮮魚ましてや活漁ではない。輸入物と格差をつけるためには、鮮度重視といった対応が必要となるだろう。しかし鮮度を重視してもそれだけ価格があがるわけではなく、活漁市場にも限度がある。いかに付加価値を見つけていくかが重要であり、その方向しか道はない」と指摘しています。
長崎魚市場における中小型旋網の水揚状況
平成元年から8年までの年間水揚平均は、数量で約2万トン、金額は30億円強です。なお、旋網物取扱の中で中小型旋網が占める割合は、8年間平均で数量38%、金額は41%となっており増加傾向にあります。特に、平成7,8年は、大中型旋網を上回る水揚金額を上げており順調です。